とても見応えがあった。東日本大震災から6年が経ったが、当事者達の苦悩はいまだ消えていない。何とか前を向こうとしている人々もいるが、心の傷を抱えながら満たされない日々を送る者は少なくないはずだ。そんな“現地”からのリアルなリポートをフィクションとして昇華させたこの映画の作者の志は高い。
いわき市の市役所に勤めているみゆきは、震災時に津波で母親と家を失い、仮設住宅で父親と二人で暮らしている。父は農業に携わっていたが、震災以降は気が抜けたように無為な生活を送るのみだ。実はみゆきは週末になると高速バスで東京へ行き、渋谷でデリヘル嬢として働いていた。デリヘル支配人の三浦は何かと彼女の世話を焼いてくれるが、彼の“本業”は舞台俳優であり、風俗の仕事は生活費を稼ぐための手段でしかない。
一方、市役所の若手職員の新田は自らも被災しながらも住民の支援に奔走していた。そんな彼の元に東京からカメラマンの沙緒里がやって来て、被災地の取材をしたいと申し入れる。新田は彼女と一緒に、改めて被害の実態を検証してゆく。
役所勤めの傍らに週末は上京してデリヘル業もこなすというヒロインの設定は突飛に思えるが、あまり違和感は無い。なぜなら、彼女の出口の見えない喪失感がひしひしと伝わってくるからだ。しかも彼女の行動は福島と東京という、物理的な距離以上に隔てられてしまった状況のメタファーになっている。
捨て鉢な気分になっているのはみゆきとその父だけではない。補償金を遊興費につぎこむ者や、生活苦のあまり怪しげな霊感商法の片棒を担ぐ者もいる。また、興味本位で震災ネタを卒論のテーマにしようとする女子大生も出てくる。これらは実際にあった話だというが、人間、生活基盤が奪われるとこれほどまでに品位が低下してしまうものなのかと、暗澹とした気分に見舞われる。
ある日みゆきは、以前付き合っていた男からヨリを戻したいと申し込まれるが、返事をするほどの気力も無い。彼女の父は立ち入り禁止になっている元の家に戻り、妻の衣料品を持ち出して泣きながら海にばらまく。これらのエピソードは胸が締め付けられる。しかし、作者は彼らの言動を否定してはいない。あれほどの大災害に遭遇してしまった以上、それらは“仕方が無いこと”なのだ。それだけに、何とか光を見出そうとしている新田達や終盤の主人公親子の有り様が、尊いものに思えてくる。
監督の廣木隆一は福島出身であり、そこに暮らす人々を描いた自らの小説を映画化している。そのためか、いつもは大した仕事をしていない彼がここでは見違えるような働きをしている。やはり、高い当事者意識は作品に求心力をもたらすのだろう。
主演の瀧内公美の繊細かつ挑発的なパフォーマンスは万全で、これからも彼女の出演作を追ってみたいと思わせるほどだ。父親役の光石研、三浦に扮する高良健吾、そして柄本時生や篠原篤、蓮佛美沙子など、皆良い味を出している。災害で失った人命や財産は帰らない。しかし、逆境に翻弄されながらも懸命に生きる人々はいる。彼らの人生は“間違いじゃない”。