(原題:MO' BETTER BLUES)90年作品。スパイク・リー監督が快作「ドゥ・ザ・ライト・シング」(89年)のすぐあとに撮った映画だが、早くも前作の路線との決別を宣言しているあたりが興味深い。つまりは“自分は黒人層を代表するような作家ではない。一般の映画作家としての扱いをして欲しい”というところだろう。しかしながら、そのスタンスが映画作りの面白さに結実していないところが、何とも釈然としない気分になる。
ブルックリン生まれのブリーク・ギリアムは、新進気鋭のジャズ・トランペッターとして高い評価を受けていた。だが、その性格は傲慢で、同じバンドのサックス奏者であるシャドーとはいがみ合ってばかり。2人のガールフレンドと二股をかけているが、どっちつかずで曖昧な態度を取り続けている。ある日ブリークは、それらのツケが全てまわってきたような災難に見舞われる。マネージャーの金銭トラブルの仲裁に入ったところ暴漢に殴られ、唇にケガを負ってトランペットを吹けなくなってしまったのだ。失意のうちに、彼はステージから遠ざかる。
要するに、図に乗っていた野郎が身の程を思い知らされて、改めて自分を見つめ直すというパターンの話だ。まあ、それが悪いということではないが、問題は本作の語り口に覇気が感じられないことだ。
以前も書いたが、リー監督が音楽の使い方が上手いというのは間違いで、正確にはテーマ曲の選定だけが非凡だということである。だからミュージシャンを主人公にしていながら演出にリズムが無く、展開がモタモタしている。彼以外の、職人的な監督が手掛けた方がもっとサマになったかもしれない。
主演はデンゼル・ワシントンで、シャドーにウェズリー・スナイプスが扮しており、この2人の佇まいはさすがに絵になる。しかし、それだけなのだ。ストーリーに求心力が乏しく、主人公がミュージシャンとして再起するかもしれないという期待感を無駄に持たせているあたりも、何とも手際が悪い。
リー監督はその後も映画を撮り続けているが、いまだに「ドゥ・ザ・ライト・シング」を超える作品をリリース出来ない(と、少なくとも個人的には思う)。いくら“黒人のために映画を作っているわけではない”と言わんばかりの態度を取っても、「ドゥ・ザ・ライト・シング」を作り上げたのは自分自身だという事実からは逃れられない。何とも難しい立場の映像作家ではある。
ブルックリン生まれのブリーク・ギリアムは、新進気鋭のジャズ・トランペッターとして高い評価を受けていた。だが、その性格は傲慢で、同じバンドのサックス奏者であるシャドーとはいがみ合ってばかり。2人のガールフレンドと二股をかけているが、どっちつかずで曖昧な態度を取り続けている。ある日ブリークは、それらのツケが全てまわってきたような災難に見舞われる。マネージャーの金銭トラブルの仲裁に入ったところ暴漢に殴られ、唇にケガを負ってトランペットを吹けなくなってしまったのだ。失意のうちに、彼はステージから遠ざかる。
要するに、図に乗っていた野郎が身の程を思い知らされて、改めて自分を見つめ直すというパターンの話だ。まあ、それが悪いということではないが、問題は本作の語り口に覇気が感じられないことだ。
以前も書いたが、リー監督が音楽の使い方が上手いというのは間違いで、正確にはテーマ曲の選定だけが非凡だということである。だからミュージシャンを主人公にしていながら演出にリズムが無く、展開がモタモタしている。彼以外の、職人的な監督が手掛けた方がもっとサマになったかもしれない。
主演はデンゼル・ワシントンで、シャドーにウェズリー・スナイプスが扮しており、この2人の佇まいはさすがに絵になる。しかし、それだけなのだ。ストーリーに求心力が乏しく、主人公がミュージシャンとして再起するかもしれないという期待感を無駄に持たせているあたりも、何とも手際が悪い。
リー監督はその後も映画を撮り続けているが、いまだに「ドゥ・ザ・ライト・シング」を超える作品をリリース出来ない(と、少なくとも個人的には思う)。いくら“黒人のために映画を作っているわけではない”と言わんばかりの態度を取っても、「ドゥ・ザ・ライト・シング」を作り上げたのは自分自身だという事実からは逃れられない。何とも難しい立場の映像作家ではある。