(原題:YEAR OF THE GUN )91年アメリカ作品。ジョン・フランケンハイマー監督の硬派な作風が活かされた快作で、また同監督が女性を的確に描けることを証明しているあたりが興味深い。
テロが横行し、政情不安のただ中にあった78年のイタリア。ローマに赴任したアメリカ人新聞記者のデイヴィッドは、リーダーの釈放を要求してテロを起こしていた赤い旅団に興味を持ち、それをモチーフにした小説を書き始める。ある日、彼はパーティーの席上で同じく赤い旅団に興味を抱いているアメリカ人カメラマンのアリソンと出会う。デイヴィッドは彼女に小説の原稿を渡すが、やがてその内容とよく似た事件が発生。これがきっかけとなり、2人は赤い旅団から狙われる羽目になってしまう。マイケル・ミューショーの同名小説の映画化だ。
率直に言って、ストーリーの輪郭はハッキリしない。だが、本作ではそれが欠点になっていないのだ。そもそも、テロリズムというのは実行している本人達にとっては“敵”は明確なのかもしれないが、一般ピープルから見れば得体の知れない暴力的事象でしかない。その不穏な“空気感”のようなものをジリジリと描出しているあたりは、この映画の手柄と言えるだろう。
また、優柔不断なインテリと現場で戦うジャーナリストを対比していることも興味深い。もちろん、その気弱なインテリはデイヴィッドの方で、昔は学生運動に身を投じたが、今では一歩も二歩も退いた形で対象を見つめることしか出来ない。あまつさえ、事件をネタにした小説を上梓してウケを狙おうとする始末。
対してアリソンは紛争地で何度も危機一髪の状態に直面しながら、それでもカメラを手放さない。彼女は“しょせん報道なんか大した力は持っていない”と呟きつつも、ジャーナズムのプロたらんとする気概を全面に漲らせている。しかも、演じるシャロン・ストーンの颯爽とした姿によって、それが実に魅力的に捉えられている。アンドリュー・マッカーシー扮するデイヴィッドが、30歳そこそこにして中年太りの兆候があらわれているのとは対照的だ(笑)。
フランケンハイマーの演出は骨太で、緊張感を途切れさせずに観る者を最後まで引っ張っていく。ビル・コンティのキレの良い音楽、ブラスコ・ジュラートのカメラによる寒色系を活かした映像など、各スタッフも良い働きを見せている。
テロが横行し、政情不安のただ中にあった78年のイタリア。ローマに赴任したアメリカ人新聞記者のデイヴィッドは、リーダーの釈放を要求してテロを起こしていた赤い旅団に興味を持ち、それをモチーフにした小説を書き始める。ある日、彼はパーティーの席上で同じく赤い旅団に興味を抱いているアメリカ人カメラマンのアリソンと出会う。デイヴィッドは彼女に小説の原稿を渡すが、やがてその内容とよく似た事件が発生。これがきっかけとなり、2人は赤い旅団から狙われる羽目になってしまう。マイケル・ミューショーの同名小説の映画化だ。
率直に言って、ストーリーの輪郭はハッキリしない。だが、本作ではそれが欠点になっていないのだ。そもそも、テロリズムというのは実行している本人達にとっては“敵”は明確なのかもしれないが、一般ピープルから見れば得体の知れない暴力的事象でしかない。その不穏な“空気感”のようなものをジリジリと描出しているあたりは、この映画の手柄と言えるだろう。
また、優柔不断なインテリと現場で戦うジャーナリストを対比していることも興味深い。もちろん、その気弱なインテリはデイヴィッドの方で、昔は学生運動に身を投じたが、今では一歩も二歩も退いた形で対象を見つめることしか出来ない。あまつさえ、事件をネタにした小説を上梓してウケを狙おうとする始末。
対してアリソンは紛争地で何度も危機一髪の状態に直面しながら、それでもカメラを手放さない。彼女は“しょせん報道なんか大した力は持っていない”と呟きつつも、ジャーナズムのプロたらんとする気概を全面に漲らせている。しかも、演じるシャロン・ストーンの颯爽とした姿によって、それが実に魅力的に捉えられている。アンドリュー・マッカーシー扮するデイヴィッドが、30歳そこそこにして中年太りの兆候があらわれているのとは対照的だ(笑)。
フランケンハイマーの演出は骨太で、緊張感を途切れさせずに観る者を最後まで引っ張っていく。ビル・コンティのキレの良い音楽、ブラスコ・ジュラートのカメラによる寒色系を活かした映像など、各スタッフも良い働きを見せている。