86年疾走プロダクション作品。監督は原一男。公開当時は大きな反響を呼び、国内外で多くの賞を獲得している。とにかく凄いドキュメンタリー映画だ。“感動した”とか“共感した”といったレベルの凄さではない。あまりの衝撃に真っ青になってしまうような問題作である。
この映画の主人公、というか作者が題材にしている人物は奥崎謙三という元日本陸軍の兵士で、彼は数少ないニューギニア戦線での生き残りである。表向きはカタギの仕事をしているが、彼は自らを“神軍上等兵”と称し、天皇の戦争責任を糾弾するため危険なプロパガンダ活動を行なうという、もうひとつの顔がある。といっても左翼過激派とは関係なく、一匹狼の活動家で、昭和天皇にパチンコ弾を打ち込もうとした事件などで、数回逮捕されている。その彼が敗戦直後ニューギニアで起こった兵士処刑事件の真相を暴くべく、遺族とともに当時の戦友を訪ね歩く。映画はその一部始終を追っている。
何よりもその取材方法が常軌を逸している。カメラは突然の訪問者である奥崎とともに彼にとっての“被告”である元の上官の家に勝手に上がり込む。明らかに迷惑そうな当事者の顔が見える。これはプライバシーの侵害であり、ジャーナリズムのルールにも反している。そして奥崎は相手の知られたくない過去を問いただす。言うことをきかない相手には突然殴る蹴るの暴行まで加える。
明らかな犯罪行為であるが、それでもカメラは回りっぱなしだ。異常な主人公と尋常ではないスタッフ。ドキュメンタリー映画の一線を超えてしまっているにもかかわらず、そこには異様な迫力がある。嘘いつわりのない主人公の行動に作者のカツドウ屋としての血が騒いでしまったからだろう。
やがて当時ニューギニアで起こった惨劇の真相が明らかになってくる。事件にかかわった一人である神戸に住む元衛生兵は“そんなこと誰でもやってたことさ。たいしたことじゃないよ”などと言ってのける。このシーンは語られる衝撃的な事実と語る口調の軽さのアンバランスのために、ほとんど圧倒的である。
この元衛生兵は極端な例としても、戦時中いろいろとヒドいことをした連中が、戦後は善良な市民面して社会生活を営んでいるという事実は、頭ではわかっていても、相当なショックだ。彼らにはアメリカ映画が描くような戦争(特にベトナム戦)の深刻な後遺症に悩む元兵士の面影はどこにもなく、戦争中の蛮行さえも思い出のひとつとして風化させてしまっている能天気な日本人の姿がそこにある。小林正樹監督の「東京裁判」でも示された、誰も責任をとらない日本の権力構造というものが、ここでは一般庶民をも巻き込んだリアルなものとしてはっきりと提示される。
この作品は映画作りのモラルの点から言うと大きな問題があり、しかもこの主人公は自分が常に正しく自分こそが神の使いであると信じきっており、他人の迷惑など知ったことではない確信犯である。当然、観客の共感は期待できない。あまりにもブッ飛んだ作品であるため、同様の映画が作られることはまずないと思う。しかし、平和をむさぼる現代日本の裏側をあばき出すためには、ここまでやらないとダメだということだろうか。
この映画の撮影後、奥崎は元上官の息子を狙撃して重傷を負わせ、服役している。また昭和天皇崩御の際には“戦争犯罪人、天皇ヒロヒトに対してようやく天罰が下った”という意味のコメントを残している。なお、彼が出所して2005年に死去するまでの間に撮られたドキュメンタリー作品「神様の愛い奴」は観ていない。
この映画の主人公、というか作者が題材にしている人物は奥崎謙三という元日本陸軍の兵士で、彼は数少ないニューギニア戦線での生き残りである。表向きはカタギの仕事をしているが、彼は自らを“神軍上等兵”と称し、天皇の戦争責任を糾弾するため危険なプロパガンダ活動を行なうという、もうひとつの顔がある。といっても左翼過激派とは関係なく、一匹狼の活動家で、昭和天皇にパチンコ弾を打ち込もうとした事件などで、数回逮捕されている。その彼が敗戦直後ニューギニアで起こった兵士処刑事件の真相を暴くべく、遺族とともに当時の戦友を訪ね歩く。映画はその一部始終を追っている。
何よりもその取材方法が常軌を逸している。カメラは突然の訪問者である奥崎とともに彼にとっての“被告”である元の上官の家に勝手に上がり込む。明らかに迷惑そうな当事者の顔が見える。これはプライバシーの侵害であり、ジャーナリズムのルールにも反している。そして奥崎は相手の知られたくない過去を問いただす。言うことをきかない相手には突然殴る蹴るの暴行まで加える。
明らかな犯罪行為であるが、それでもカメラは回りっぱなしだ。異常な主人公と尋常ではないスタッフ。ドキュメンタリー映画の一線を超えてしまっているにもかかわらず、そこには異様な迫力がある。嘘いつわりのない主人公の行動に作者のカツドウ屋としての血が騒いでしまったからだろう。
やがて当時ニューギニアで起こった惨劇の真相が明らかになってくる。事件にかかわった一人である神戸に住む元衛生兵は“そんなこと誰でもやってたことさ。たいしたことじゃないよ”などと言ってのける。このシーンは語られる衝撃的な事実と語る口調の軽さのアンバランスのために、ほとんど圧倒的である。
この元衛生兵は極端な例としても、戦時中いろいろとヒドいことをした連中が、戦後は善良な市民面して社会生活を営んでいるという事実は、頭ではわかっていても、相当なショックだ。彼らにはアメリカ映画が描くような戦争(特にベトナム戦)の深刻な後遺症に悩む元兵士の面影はどこにもなく、戦争中の蛮行さえも思い出のひとつとして風化させてしまっている能天気な日本人の姿がそこにある。小林正樹監督の「東京裁判」でも示された、誰も責任をとらない日本の権力構造というものが、ここでは一般庶民をも巻き込んだリアルなものとしてはっきりと提示される。
この作品は映画作りのモラルの点から言うと大きな問題があり、しかもこの主人公は自分が常に正しく自分こそが神の使いであると信じきっており、他人の迷惑など知ったことではない確信犯である。当然、観客の共感は期待できない。あまりにもブッ飛んだ作品であるため、同様の映画が作られることはまずないと思う。しかし、平和をむさぼる現代日本の裏側をあばき出すためには、ここまでやらないとダメだということだろうか。
この映画の撮影後、奥崎は元上官の息子を狙撃して重傷を負わせ、服役している。また昭和天皇崩御の際には“戦争犯罪人、天皇ヒロヒトに対してようやく天罰が下った”という意味のコメントを残している。なお、彼が出所して2005年に死去するまでの間に撮られたドキュメンタリー作品「神様の愛い奴」は観ていない。