欠点は多いが、送り手の切迫した問題提起から目が離せない映画だ。舞台は近未来の架空の県だが、これは明らかに先の震災による原発事故が発生した場所である。事件の当事国でありながら、題材に対して及び腰でマトモに向き合えない邦画界に対する痛烈な一撃になっているだけでも、観る価値はあると思う。
主に描かれるのは3組のカップルだ。酪農と農業を営む小野泰彦と、認知症の妻・智恵子。その息子の洋一と妻いずみ。小野家の近所に住んでいたが避難を余儀なくされた鈴木家の息子のミツルと、その恋人ヨーコである。この中では洋一といずみの扱いが実にいい加減である。脳天気で精神的に幼い洋一と、放射能におびえて移住先でも防護服を手放さないいずみ。この二人が画面の真ん中に出てきてギャーギャー騒ぐだけでイライラしてくるし、さらには終盤近くには突然“愛があるから大丈夫”などと場違いなことを口走る始末。
また小野家に立ち退きを迫る市役所職員の描き方も、過度なカリカチュアライズによって存在価値が薄れてしまった。そもそも、いくら杓子定規の“お役所仕事”といっても、敷地内に杭を打って避難区域とそれ以外の場所とを確定するなんてことはやらないはずだ。
斯様な弱点を分かった上で、なおかつ本作が屹立した存在感を主張していると感じるのは、残り2組の描き方のヴォルテージが高いからである。特に泰彦と智恵子が最後に下す“決断”に関して、観る者は粛然とするしかないだろう。危なくなったら逃げればいい・・・・と外野の者が決めつけるのは傲慢である。逃げたくても逃げられない、生まれ育った土地がアイデンティティの一部になっている人間は、他では生きていけないのだ。元より我が国は、こういう“土地と共に生きる人々”によって支えられてきたのではなかったか。
智恵子が繰り返す“もう、帰ろうよ”というフレーズが痛切だ。原発なんか近くに存在しなかった頃、あるいは原発が建設されたとしても、当局側の“安全です”という御題目を信じて日々を送っていた頃、誰しもそんな時点に“帰りたい”のである。しかし、政府や電力会社の言うことがまったく信用できないことが明らかになった現在、我々にとって帰る場所なんかどこにもないのだ。
ヨーコの家族は津波に呑まれたかもしれない。ミツルと共に非常線を突破して両親を探しに行くが、瓦礫の山が連なっているばかり。肉親を失うという出来事に直面しても、すぐさま悲しみが諦念に取って代わられるヘヴィな状況から、彼らは“帰って”来ることはない。
泰彦と智恵子に扮する夏八木勲と大谷直子の演技は、彼らの長いキャリアの中でも代表作になるだろう。素晴らしく上手い。他に誰もいない雪原の中で、二人が盆踊りを踊るシーンは、昨今の日本映画の中で屈指の名場面である。ミツルとヨーコを演じる清水優と梶原ひかりのパフォーマンスも上出来だ。
タイトルとは裏腹に“希望の持てない国”になってしまっても、やはり我々はこの二人のように“一歩、一歩”と足を進めていく他ないのである。園子温という作家は現在最も強靱な求心力を発揮できる人材に間違いと思う。バックに流れるマーラーの交響曲第10番“アダージョ”が美しさの限りだ。