91年作品。少年院あがりの3人の若者(風間トオル、内田勝康、西川弘志)が思い付いたのは、和歌山県の山奥に住む大富豪の老婆(北林谷栄)を誘拐して、身代金を取ろうという計画だった。犯行は成功。しかし、老婆は反対に若者たちのイニシアティブをとってしまい、自分から100億円という破格の身代金を要求。事態は思わぬ方向へ動き出す。
天藤真原作の同名小説の映画化で、脚本・監督は岡本喜八。公開当時はかなり評判が良く、実際に丁寧な作りの映画だと思う。登場人物ひとりひとりのキャスティングが適切であるし、周到に計算された演出、切れのいい画面編集と、当時の岡本監督の実力が観ていてはっきりとわかる。
誘拐犯罪をドキュメント風に追う前半から八十媼の人生の重みを浮き彫りにしていく後半へと転調する呼吸もみごとだ。プロットも周到で、とくにテレビ局を仲介させて親族に自分の無事を確認させるあたりのトリックは見事としか言いようがない。
しかし、技巧的には感心させられるものの、娯楽映画としてのワクワクする楽しさは、残念ながら伝わってはこない。胸の痛くなってくる緊迫感や、手に汗握るスリル等というものがないのだ。喜劇だから緊迫感に結び付く必要はないなどと岡本喜八監督が思うはずがない。だとすれば、これは失敗ではないのか。
冒頭、戦争が老婆から奪った三人の子供の遺影が映る。結末で国家権力に向けての批判めいた独白がある。しかし、結果として老婆が国家から節税の形で数十億円を奪ったとしても、それは紀州の山林王の財産を守る結果しか生んでいない。であるから要するに、金持ちの年寄りが若者をダシに遊んだだけ、という印象しか受けない。
だいたい、犯罪コメディという枠内に、社会派的メッセージを織り込むという図式は(決して実現不可能ではないが)無理がある。もしその線を狙ったとするなら、この脚本は力不足だ。少なくとも、昔のテレビの洋画劇場のどうでもいい解説みたいに、ラスト近くで作品のテーマをセリフで語らせるような失態はありえなかったはずだ。
もっと単純明快で、素直に楽しめる作品にしてほしかった。とは言っても、映画のレベルは高いし、観る価値はあるとは思う。脇を固める緒形拳や樹木希林も良いし、佐藤勝による音楽も申し分ない。
天藤真原作の同名小説の映画化で、脚本・監督は岡本喜八。公開当時はかなり評判が良く、実際に丁寧な作りの映画だと思う。登場人物ひとりひとりのキャスティングが適切であるし、周到に計算された演出、切れのいい画面編集と、当時の岡本監督の実力が観ていてはっきりとわかる。
誘拐犯罪をドキュメント風に追う前半から八十媼の人生の重みを浮き彫りにしていく後半へと転調する呼吸もみごとだ。プロットも周到で、とくにテレビ局を仲介させて親族に自分の無事を確認させるあたりのトリックは見事としか言いようがない。
しかし、技巧的には感心させられるものの、娯楽映画としてのワクワクする楽しさは、残念ながら伝わってはこない。胸の痛くなってくる緊迫感や、手に汗握るスリル等というものがないのだ。喜劇だから緊迫感に結び付く必要はないなどと岡本喜八監督が思うはずがない。だとすれば、これは失敗ではないのか。
冒頭、戦争が老婆から奪った三人の子供の遺影が映る。結末で国家権力に向けての批判めいた独白がある。しかし、結果として老婆が国家から節税の形で数十億円を奪ったとしても、それは紀州の山林王の財産を守る結果しか生んでいない。であるから要するに、金持ちの年寄りが若者をダシに遊んだだけ、という印象しか受けない。
だいたい、犯罪コメディという枠内に、社会派的メッセージを織り込むという図式は(決して実現不可能ではないが)無理がある。もしその線を狙ったとするなら、この脚本は力不足だ。少なくとも、昔のテレビの洋画劇場のどうでもいい解説みたいに、ラスト近くで作品のテーマをセリフで語らせるような失態はありえなかったはずだ。
もっと単純明快で、素直に楽しめる作品にしてほしかった。とは言っても、映画のレベルは高いし、観る価値はあるとは思う。脇を固める緒形拳や樹木希林も良いし、佐藤勝による音楽も申し分ない。