日本人の土着的なアイデンティティを再確認したような映画だ。園子温監督の「希望の国」でも描かれたように、我が国は“土地と共に生きる人々”によって支えられてきた。放射能汚染の危険性があるからといって、生まれ育った土地を簡単に捨てるわけにはいかない。さらに本作は“震災後に外部から入ってくる人間”をも扱うことによって、テーマを重層化させている。この手口は巧妙だ。
原発事故で先祖代々受け継いできた土地を失った総一とその家族。今は妻と娘そして血の繋がらない母親と狭い仮設住宅で細々と暮らしている。妻は家計を支えるためにデリヘルに勤め、母親は認知症の症状が出始めて時折自分の家が分からなくなる。総一自身は定職にも就けない。まったくやりきれない生活だ。
そんな中、昔故郷を追われた腹違いの弟の次郎が、立ち入り禁止区域となった家に戻ってきていることを知る。彼はここで生きていくことを決めており、放置されていた田んぼの手入れをし、苗を植える。総一はそんな次郎の姿を見て最初は驚くが、やがて弟の本当の気持ちを察するようになる。
土地を失って辛いのは、総一たちだけではない。借金を抱えて何とか国や電力会社から賠償金をせしめようとする者、生きる張り合いを失って自ら命を絶つ者もいる。しかしながら、毅然として故郷に戻り土地と共に生きることを選んだのは、かつてそこから追放された次郎だけだったのだ。
あの事故に関し、現場近くに住んでいた者たちに対して“危ないからとっとと出て行けば良い”とか“故郷を捨てる前提で身の振り方を考えた方が良い”とか言うのは容易い。ところが、そう簡単に土地を離れられない人々がいるのも、また事実である。大切なのは、彼らをどうやって別の土地に移すのかを考えることではなく、土地と共に生きて今後もその生活パターンを変えたくない人たちの存在を認めることである。原発事故対策も、復興計画も、そこから始めなければならない。
断っておくが、私は何も“故郷を離れたくない人たちの意見を最大限に尊重しろ”と言いたいのではない。どう逆立ちしたって、汚染の危険があるエリアに全員そのまま住めるはずもないのだ。ただ、そんな人たちの意見を想定して、早めの思い切った措置を講ずるべきであった。今となっては、もう遅いかもしれない。
松山ケンイチ扮する次郎の眼差しには透徹したような深みがある。故郷を喪失し、根無し草のような生活を長らく送った後、やっと土地と共に生きる機会を得たのだ。愛しい故郷。美しい故郷。だが、その土地には“未来”はない。そんな彼は母親を故郷に戻し、一緒に暮らすことを選ぶ。
母親役の田中裕子の演技も圧巻だ。年を取ってからの彼女のパフォーマンスは、回を追うごとに練り上げられてきている。総一役の内野聖陽、妻のミサを演じる安藤サクラ、次郎と行動を共にするドロップアウト青年役の山中崇、いずれも手堅い演技である。監督はドキュメンタリー出身の久保田直で、これが劇映画デビューとなるが、手練れの作家のような力量を見せる。加古隆の音楽も良いし、Salyuによるエンドタイトル曲もなかなかのものだ。