94年作品。高畑勲の作家性が前面に押し出された映画だ。ただし、それが公開当時ファミリー映画として興行展開される番組にふさわしかったのかどうか、すこぶる疑問だ。少なくとも、私は小さい子供には見せたくない。大人の観客でも感じるこの居心地の悪さ。これは評価出来ない映画である。
エコロジー派の高畑が描くユートピアとは、自然と人間が共存する世界なのだろう。「おもひでぽろぽろ」の東北の山村や「柳川堀割物語」の柳川、製作を担当した「風の谷のナウシカ」の未来世界などで十分すぎるくらい描かれていた。
ただ、それらはどれも人間の側から描かれていた。つまり人間が自然と共存しようとして並々ならぬ努力を払うこと、対する自然の描き方は客体としてのそれでしかないことが明記されていた。自然を擬人化しようとしてもヘタすると作者の傲慢にしかならない恐れがあるし、しょせん作り手は人間だし、それが正解だった。
ところがこの作品は“自然の代表”としてタヌキを登場させ、主人公としている。理由は不明だが、その手法には賛成できない。
多摩の宅地開発に抵抗する彼らは、人間を超越した“自然の象徴”として描かれていると予想していた。そういう設定だと自然に対する畏怖という点から、多少は納得できるかもしれないと思った。ところが、いくら人間に化けたってタヌキはタヌキでしかないことを明示しているのだ。
抵抗の方法も極めて幼稚で、大々的な化け物ショーをやって人間の度肝を抜く愛敬があると思えば、建設作業員を殺しまくっても反省もしない。終盤では人間に同化して、社会の底辺で細々と生きる姿まで描かれる。頭の悪い畜生でしかない彼らをこうまで思い入れたっぷりに描いて、いったい何になるのだろう。
超能力で昔の多摩の自然を一時的に再現するシーンまであるが、単なるノスタルジーであり不要だ。宅地開発はそれ相当の必然があってやっているのだ。それが悪いというなら、そこに到る人間側の事情もテンション上げて描くべきではないのか? すべてが中途半端で、居心地が悪いというのはそういうことだ。
タヌキたちが可愛くないのも困ったものだが(まあ、可愛ければいいというわけではないけど ^^;)、三段変身する必然も効果もなく、思わせぶりなナレーションはシラけるし、主人公の二匹をアテる声の出演者達のヒドさも相まって、これは当時のスタジオジブリには珍しい、明らかな失敗作だと言ってしまおう。
エコロジー派の高畑が描くユートピアとは、自然と人間が共存する世界なのだろう。「おもひでぽろぽろ」の東北の山村や「柳川堀割物語」の柳川、製作を担当した「風の谷のナウシカ」の未来世界などで十分すぎるくらい描かれていた。
ただ、それらはどれも人間の側から描かれていた。つまり人間が自然と共存しようとして並々ならぬ努力を払うこと、対する自然の描き方は客体としてのそれでしかないことが明記されていた。自然を擬人化しようとしてもヘタすると作者の傲慢にしかならない恐れがあるし、しょせん作り手は人間だし、それが正解だった。
ところがこの作品は“自然の代表”としてタヌキを登場させ、主人公としている。理由は不明だが、その手法には賛成できない。
多摩の宅地開発に抵抗する彼らは、人間を超越した“自然の象徴”として描かれていると予想していた。そういう設定だと自然に対する畏怖という点から、多少は納得できるかもしれないと思った。ところが、いくら人間に化けたってタヌキはタヌキでしかないことを明示しているのだ。
抵抗の方法も極めて幼稚で、大々的な化け物ショーをやって人間の度肝を抜く愛敬があると思えば、建設作業員を殺しまくっても反省もしない。終盤では人間に同化して、社会の底辺で細々と生きる姿まで描かれる。頭の悪い畜生でしかない彼らをこうまで思い入れたっぷりに描いて、いったい何になるのだろう。
超能力で昔の多摩の自然を一時的に再現するシーンまであるが、単なるノスタルジーであり不要だ。宅地開発はそれ相当の必然があってやっているのだ。それが悪いというなら、そこに到る人間側の事情もテンション上げて描くべきではないのか? すべてが中途半端で、居心地が悪いというのはそういうことだ。
タヌキたちが可愛くないのも困ったものだが(まあ、可愛ければいいというわけではないけど ^^;)、三段変身する必然も効果もなく、思わせぶりなナレーションはシラけるし、主人公の二匹をアテる声の出演者達のヒドさも相まって、これは当時のスタジオジブリには珍しい、明らかな失敗作だと言ってしまおう。