Quantcast
Channel: 元・副会長のCinema Days
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2422

「エンドロールのつづき」

$
0
0
 (原題:LAST FILM SHOW)一部には“インド版「ニュー・シネマ・パラダイス」”という評があるらしいが、明らかに違う。断っておくが、私は「ニュー・シネマ・パラダイス」は嫌いである。ならばそれとはアプローチが異なる本作は評価出来るのかというと、そうでもない。映画にとって一番重要なファクターは脚本であり、本作のように筋書きが要領を得ないシャシンを持ち上げるわけにはいかないのだ。

 インドの田舎町で暮らす9歳の少年サマイの家庭は、チャイ店を営む父親と幼い妹、そして専業主婦の母親の4人家族。堅物な父は映画をはじめとする歌舞音曲の類いをまったく受け付けないが、信仰するカーリー女神の映画だけは別らしく、封切られた際には一家で観に行くことになる。初めて大スクリーンを前にしたサマイは、瞬く間に映画に魅せられてしまう。



 それから後もサマイは親に黙って映画館に忍び込むが、スタッフに見つかって叩き出される。偶然マサイと知り合った映写技師のファザルは、料理上手なサマイの母が作る弁当を提供することを条件に、映写室から画面を覗き見ることを許可する。さまざまな作品に接するうちに映画への興味が増すばかりのサマイは、やがて自分も映画の仕事に関わりたいと思うようになる。脚本も担当した監督のパン・ナリン自身の体験を元にしているらしい。

 本作の脚本の不備を挙げると、ひとつは主人公がどうして映画にのめり込むようになったのか不明確であることだ。普通、年若い者が映画にハマる切っ掛けというのは大抵“映画の内容に魅せられたから”というものではないだろうか。ところがサマイにはそれが感じられない。彼が興味を持ったのは、どうやら映画の上映技術の方らしい。だからこそ、彼は自前の“映写装置”を作って勝手に“上映会”みたいなことを始めたのだろう。しかし、それに至る主人公の内面が描けていない。

 次に、時代設定が不自然である。終盤近くに映画館の映写方法がフィルムからプロジェクター類に移行する様子が示されるが、だとすればこのドラマの背景は2010年ぐらいだ。ところがサマイの住む町ではスマートフォンどころか従来型携帯電話もパソコンも普及していない。いくらインドは地域格差が激しいといっても、話が極端に過ぎる。

 そして最大の難点は、主人公の犯罪行為を何も咎めていないこと。サマイは自前の“上映会”のためにフィルムを何巻も盗み出す。明らかな泥棒であり、ヘタすれば鑑別所行きは免れないが、なぜか重い懲罰は課せられない。こんな調子で主人公の映画愛に感心しろと言われても、それは無理な注文だ。結局、印象的だったのは母親の作る美味しそうな料理だけという、沈んだ気分でエンディングを迎えてしまった。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2422

Trending Articles