鈴木英夫監督による昭和37年東宝作品。働く女たちの哀歓を描いた、いわゆる“女性映画”だが、これは観ている間に何度も“ほーっ”と感嘆の溜め息が出るようなウェルメイドな仕上がりだ。何より素材を扱う際にフェミニズムだのマッチョイズムだのといった余計なイデオロギーの視点が入っていないのが良い。作者のスタンスはあくまでナチュラルだ。
主人公の矢田律子は西銀広告の社員。仕事は出来るが、周りの女性スタッフにはあまり恵まれていない。それでも懸命に頑張っている。彼女たちの次の営業ターゲットは、難波製薬が発売する新薬の広告だ。ライバル会社の大通広告も必死で食い込もうとする。そんな中、難波の宣伝課長である坂井が律子に接触する。大通広告も難波のスタッフを巻き込もうと暗躍し、2つの広告会社の競争は熾烈を極めていく。鈴木と升田商二の共作によるオリジナル脚本の映画化だ。
鈴木監督は登場人物をすべて“一個の人間”として先入観なしに徹底的に描き込む。つまりはキャラクターをハッキリするという土台の上ではじめて映画の設定をのっけているわけで、どこぞの映画みたいに設定からキャラクターを無理矢理デッチ上げるような愚を犯していない。だからこそ、この映画には悪役も善玉もいない。たまたま主人公にとって敵にも味方にもなる人物が“設定上”存在するだけの話で、それぞれのあり方を糾弾も美化もしない。その状況に向き合って精一杯生きる登場人物たちをクールに描くだけだ。
各キャラクターの造形がしっかりしているからこそ、観る者は自由に劇中の誰かに自分を投影し、その思いを共有することができる。お仕着せではない情感に酔うこともできる。切なさと痛々しさに感じ入ったりもできる。それを可能にする鈴木監督の堅牢極まりない演出力には脱帽あるのみだ。ラストのまとめ方も、ストイックで余韻が残る。
そして有能なキャストの面々、主演の司葉子をはじめ宝田明や原知佐子、山崎努や大塚道子、児玉清、浜村純、西村晃などの分をわきまえた的確な演技が光る。ダメ男に惚れ込む身持ちの悪い女を森光子が嬉々として演じているのもうれしい。池野成の音楽と、逢沢譲のカメラによる撮影も言うことなし。後年のキャリアウーマンを描いたハリウッド作品なんかとは完全に一線を画す、女性を主人公にした映画の傑作である。
主人公の矢田律子は西銀広告の社員。仕事は出来るが、周りの女性スタッフにはあまり恵まれていない。それでも懸命に頑張っている。彼女たちの次の営業ターゲットは、難波製薬が発売する新薬の広告だ。ライバル会社の大通広告も必死で食い込もうとする。そんな中、難波の宣伝課長である坂井が律子に接触する。大通広告も難波のスタッフを巻き込もうと暗躍し、2つの広告会社の競争は熾烈を極めていく。鈴木と升田商二の共作によるオリジナル脚本の映画化だ。
鈴木監督は登場人物をすべて“一個の人間”として先入観なしに徹底的に描き込む。つまりはキャラクターをハッキリするという土台の上ではじめて映画の設定をのっけているわけで、どこぞの映画みたいに設定からキャラクターを無理矢理デッチ上げるような愚を犯していない。だからこそ、この映画には悪役も善玉もいない。たまたま主人公にとって敵にも味方にもなる人物が“設定上”存在するだけの話で、それぞれのあり方を糾弾も美化もしない。その状況に向き合って精一杯生きる登場人物たちをクールに描くだけだ。
各キャラクターの造形がしっかりしているからこそ、観る者は自由に劇中の誰かに自分を投影し、その思いを共有することができる。お仕着せではない情感に酔うこともできる。切なさと痛々しさに感じ入ったりもできる。それを可能にする鈴木監督の堅牢極まりない演出力には脱帽あるのみだ。ラストのまとめ方も、ストイックで余韻が残る。
そして有能なキャストの面々、主演の司葉子をはじめ宝田明や原知佐子、山崎努や大塚道子、児玉清、浜村純、西村晃などの分をわきまえた的確な演技が光る。ダメ男に惚れ込む身持ちの悪い女を森光子が嬉々として演じているのもうれしい。池野成の音楽と、逢沢譲のカメラによる撮影も言うことなし。後年のキャリアウーマンを描いたハリウッド作品なんかとは完全に一線を画す、女性を主人公にした映画の傑作である。