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Channel: 元・副会長のCinema Days
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「ウィンズ・オブ・ゴッド」

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 95年松竹作品。かけ出しの漫才師コンビが交通事故に遭い、気がついてみるとそこは1945年8月1日だった。同じ外見の戦時下の特攻隊員の魂と入れ替わってしまったのだ。敗戦を知る彼らは隊員仲間を説得し、なんとか特攻をやめさせようとするが、刻一刻と8月15日は近づいてくる。主演の今井雅之が手掛けた戯曲を舞台演出家の奈良橋陽子が監督。舞台の方は海外でも上演され、好評を博したという。

 これはつまらん映画である。この設定で何を描けばいいのか、バカでもない限り誰でもわかる。特攻という行為の冷徹な分析、それに対する徹底的な糾弾であり、それ以外はない。ところがこの映画は“それ以外”のことに終始し、本題を投げた。よって観る価値はないと断言できる。



 主人公の二人は、原爆投下の日さえ知らないアホな現代の若者なのだが、魂は入れ替わっていても肉体は戦時下の思想と技術が身に付いていて、だんだん特攻隊員としての“本性”が表面に出てしまう。この筋書きは一見ユニークなようでいて、批判の鉾先を巧妙にかわそうという作者の下心がミエミエだ。主人公がこういう二重人格的なキャラクターであると設定すれば、現代の若者が特攻を願うようになるという仰天もののシチュエーションも、可愛い恋人を残してまで死にたくなるような設定も、“二重人格だから仕方ない”で片ずけられてしまう。

 百歩譲って、現代の若者が特攻に魅せられていくという展開をゴリ押しするならば、そこには切迫した葛藤あって当然だが、これも“二重人格だからね”で終わってしまう。要するに、核心に迫れない作者の力量不足がこういういいかげんな設定を生んだのだ。

 “愛する祖国を守るために特攻する”(劇中のセリフ)、だからどうして祖国を守るため犬死にするのか、この映画ではこのことが一種の既成概念として扱われており、“なぜ”という問題意識はゼロだ。少しは物事を真剣に考えろと言いたい。

 序盤の舞台劇風の展開や、ラストの弛緩した現代の描写は、物語に何のインパクトも与えない。学校みたいな特攻隊の基地も奇をてらったつもりだろうが、失笑を買うばかりだ。悪い意味でまことにアマチュア臭い、困った映画である。よかったのは大島ミチルの音楽だけである。

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