(原題:That's Dancing)84年作品。歴代の映画に登場したダンス・シーンの傑作場面を厳選し、編集したアンソロジーだ。この手の映画でまず思い出されるのは、74年の第一作から3本作られた「ザッツ・エンタテインメント」シリーズである。本作は一見その“二番煎じ”だと思われるが、実はかなり違う。新しい切り口が用意されていて、訴求力が高い。その意味では、観る価値は大いにある。
まず、この映画は「ザッツ~」シリーズとは異なり、MGMだけではなく他社のフィルムも使い、総括的な作りになっていることが挙げられる。もちろん、それだけでは突出した特色とは言えない。だが、映画のオープニングに“すべてのダンサーに捧げる”というメッセージが表示され、次に“とりわけ映画が発明される以前のダンサーたちに”と続いた時点で、早くも本作の“意識の高さ”に感心してしまう。
そうなのだ。どんなに素晴らしいパフォーマンスであっても、映画が発明される以前のダンサーたちの仕事を検証することは不可能なのである。今さらこんなことを言うのはおかしいが、ここで映画というメディアの革新性を痛感した。そして、第一部のナレーターであるジーン・ケリーが19世紀の終わりに発明された“ムーヴィーカメラ”によってダンスの形態が変遷を遂げたことを告げるのだから、尚更である。
つまりは“ムーヴィーカメラ”は舞台での集団芸から、アップが可能になったことによる個人芸の時代に移行させ、さらにダンスは選ばれた達人たちのパーソナルな芸から、一般ピープルが嗜むものに“進化”させたのだ。本作は映画の黎明期からG・ケリーやフレット・アステアなどの綺羅星の如く洗練されたパフォーマンスを次々と紹介した後、終盤には何と「サタデー・ナイト・フィーバー」(77年)のジョン・トラボルタのディスコダンスが挿入される。
かつてのミュージカル映画黄金時代のスターたちの圧倒的な力量に比べれば、トラボルタの踊りはいかにも俗っぽい。しかし“ムーヴィーカメラ”とダンスとの関係性を突き詰めると、ダンスの大衆化というフェーズにおいて、ここで「サタデー・ナイト・フィーバー」が出てくることは当然のことなのだ。
また、「オズの魔法使い」でカットされたレイ・ボルジャーの踊りや、少年時代のサミー・テイヴィスJr.や、伝説的黒人ダンサーのビル・ボージャングルズ・ロビンソンの姿など、未公開フィルムが紹介されているのも興味深い。監督のジャック・ヘイリーJr.の仕事ぶりは大いに評価されるべきだろう。
まず、この映画は「ザッツ~」シリーズとは異なり、MGMだけではなく他社のフィルムも使い、総括的な作りになっていることが挙げられる。もちろん、それだけでは突出した特色とは言えない。だが、映画のオープニングに“すべてのダンサーに捧げる”というメッセージが表示され、次に“とりわけ映画が発明される以前のダンサーたちに”と続いた時点で、早くも本作の“意識の高さ”に感心してしまう。
そうなのだ。どんなに素晴らしいパフォーマンスであっても、映画が発明される以前のダンサーたちの仕事を検証することは不可能なのである。今さらこんなことを言うのはおかしいが、ここで映画というメディアの革新性を痛感した。そして、第一部のナレーターであるジーン・ケリーが19世紀の終わりに発明された“ムーヴィーカメラ”によってダンスの形態が変遷を遂げたことを告げるのだから、尚更である。
つまりは“ムーヴィーカメラ”は舞台での集団芸から、アップが可能になったことによる個人芸の時代に移行させ、さらにダンスは選ばれた達人たちのパーソナルな芸から、一般ピープルが嗜むものに“進化”させたのだ。本作は映画の黎明期からG・ケリーやフレット・アステアなどの綺羅星の如く洗練されたパフォーマンスを次々と紹介した後、終盤には何と「サタデー・ナイト・フィーバー」(77年)のジョン・トラボルタのディスコダンスが挿入される。
かつてのミュージカル映画黄金時代のスターたちの圧倒的な力量に比べれば、トラボルタの踊りはいかにも俗っぽい。しかし“ムーヴィーカメラ”とダンスとの関係性を突き詰めると、ダンスの大衆化というフェーズにおいて、ここで「サタデー・ナイト・フィーバー」が出てくることは当然のことなのだ。
また、「オズの魔法使い」でカットされたレイ・ボルジャーの踊りや、少年時代のサミー・テイヴィスJr.や、伝説的黒人ダンサーのビル・ボージャングルズ・ロビンソンの姿など、未公開フィルムが紹介されているのも興味深い。監督のジャック・ヘイリーJr.の仕事ぶりは大いに評価されるべきだろう。