クリストファー・ドイルによるカメラワークと橋本一子の音楽を除くと、まるでダメな映画である。とにかく、設定および筋書きがなっておらず、演出も本当に弱体気味だ。どのような意図で作ろうと思ったのか、まるで分からない。脚本の第一稿を提示された時点で、プロデューサーは即刻取り止めるべき企画であったことは間違いないだろう。
流行作家の美倉洋介は、新宿駅近くの地下道で酔っ払って路上に寝ていた若い女を拾い、自宅に連れて帰る。彼女は“ばるぼら”と名乗り、奔放に振る舞う。一時は怒って家から追い出した洋介だが、やがて“ばるぼら”は洋介と半同棲状態になる。すると不思議と洋介に製作意欲が湧いてきて、スムーズに筆が進むのだった。そしてとうとう洋介は“ばるぼら”との結婚を決意するが、式の途中でトラブルが発生して“ばるぼら”は姿を消してしまう。手塚治虫が70年代に発表した同名コミックの映画化だ。
まず、洋介が“ばるぼら”に興味を持った理由が分からない。彼女がヴェルレーヌの詩を口ずさんでいたことが切っ掛けになったようだが、どうしてその程度のことで小汚い女を“お持ち帰り”しようとしたのか不明だ。洋介が“ばるぼら”のおかげで仕事が捗るようになったのも、こじつけに近い。そのような展開に持っていこうとするならば、それまでの洋介の心理的屈託をテンション上げて描いておくべきだ。
原作は読んでいないが、洋介には元々あらゆるものに性的欲望を覚えるという設定があったらしく、この映画版ではそこがスッポリ抜けているのは納得出来ない。さらに、実は“ばるぼら”はスピリチュアルな存在で、藁人形を使って呪いをかけたり、そのバックには得体の知れない“団体”みたいなのが控えているという話になると、完全について行けなくなる。
終盤に近付くほど映画作りを放り出したような様相を呈し、ラストは腰砕けだ。また、洋介と“ばるぼら”以外のキャラクターが全然機能していないのにも閉口する。手塚眞の演出は気合いが入っておらず、作劇のテンポが非常に悪い。偉大な父親の作品を映画化するのに、このような仕事ぶりしか示せないのは実にナサケない。
ヒロイン役の二階堂ふみは諸肌脱いでの熱演だが、洋介に扮する稲垣吾郎の演技がそれに対抗出来るほどではないので、観ていてストレスが溜まる。あと渋川清彦に石橋静河、美波、大谷亮介、渡辺えりなど悪くない面子を揃えているにも関わらず、満足に扱われていない。観て損したと思った。
流行作家の美倉洋介は、新宿駅近くの地下道で酔っ払って路上に寝ていた若い女を拾い、自宅に連れて帰る。彼女は“ばるぼら”と名乗り、奔放に振る舞う。一時は怒って家から追い出した洋介だが、やがて“ばるぼら”は洋介と半同棲状態になる。すると不思議と洋介に製作意欲が湧いてきて、スムーズに筆が進むのだった。そしてとうとう洋介は“ばるぼら”との結婚を決意するが、式の途中でトラブルが発生して“ばるぼら”は姿を消してしまう。手塚治虫が70年代に発表した同名コミックの映画化だ。
まず、洋介が“ばるぼら”に興味を持った理由が分からない。彼女がヴェルレーヌの詩を口ずさんでいたことが切っ掛けになったようだが、どうしてその程度のことで小汚い女を“お持ち帰り”しようとしたのか不明だ。洋介が“ばるぼら”のおかげで仕事が捗るようになったのも、こじつけに近い。そのような展開に持っていこうとするならば、それまでの洋介の心理的屈託をテンション上げて描いておくべきだ。
原作は読んでいないが、洋介には元々あらゆるものに性的欲望を覚えるという設定があったらしく、この映画版ではそこがスッポリ抜けているのは納得出来ない。さらに、実は“ばるぼら”はスピリチュアルな存在で、藁人形を使って呪いをかけたり、そのバックには得体の知れない“団体”みたいなのが控えているという話になると、完全について行けなくなる。
終盤に近付くほど映画作りを放り出したような様相を呈し、ラストは腰砕けだ。また、洋介と“ばるぼら”以外のキャラクターが全然機能していないのにも閉口する。手塚眞の演出は気合いが入っておらず、作劇のテンポが非常に悪い。偉大な父親の作品を映画化するのに、このような仕事ぶりしか示せないのは実にナサケない。
ヒロイン役の二階堂ふみは諸肌脱いでの熱演だが、洋介に扮する稲垣吾郎の演技がそれに対抗出来るほどではないので、観ていてストレスが溜まる。あと渋川清彦に石橋静河、美波、大谷亮介、渡辺えりなど悪くない面子を揃えているにも関わらず、満足に扱われていない。観て損したと思った。