81年作品。正直言って出来自体は大したことがないと思う。しかし、この時代の空気感はよく出ていた。東映と角川春樹事務所による製作で、東映洋画が配給したものだが、当時は隆盛を誇っていた角川映画の中では配給収入は振るわず、何とか製作費を回収した程度だった。とはいえ、映像と音楽も効果的で、こういう“小洒落た”エクステリアを持つシャシンを手掛けた意義はあるだろう。
夕暮の第三京浜をオートバイで走っていた青年ゴローは、白いムスタングから子猫と若い女が放り出される現場に遭遇する。それが切っ掛けになり、ゴローはさち乃と名乗るその女(そして子猫)と一緒に暮らし始める。一方、白いムスタングに乗っていた中年男は福生の旧米軍ハウスで男2人、女1人の奇妙な共同生活を送っている。しかも彼には、別居中の妻と子供がいた。ある日、同居していた男が急死してしまうと、それまで何とかトラブルなくやってきた彼らの生活が揺らいでくる。
ゴローとムスタングの男との間を行ったり来たりするさち乃の行動は承服しがたいし、彼女をはじめ登場人物の内面描写は希薄だ。すべてがサラリと雰囲気だけで流していくような作劇は、藤田敏八監督の手による映画とも思えない。だが、捨てがたいテイストがあるのも事実。
まるでヒッピーのような家族観を持つムスタングの男は、明らかに70年代的(それも初期)の風俗を体現化している。対して、気楽なバイト暮らしでノンシャランに生きるゴローは、ネアカ万能主義(?)の80年代の空気をまとっている。時代の変わり目をとらえたこの構図は面白い。片岡義男による原作は読んでいないが、この作家らしいスタイリッシュなタッチはよく表現されていると思う。
キャストの中では、何といってもさち乃に扮する浅野温子の存在感が圧倒的だ。ゴローはもちろん、いいトシのムスタングの男まで振り回されるのは当然だと思わせるほど、奔放な魅力が爆発している。この頃の若手女優は、当たり前のように“身体を張って”くれたのだが、今から考えると隔世の感がある(笑)。古尾谷雅人と山崎努をはじめ、室田日出男に伊丹十三、岸部一徳、石橋蓮司、原田芳雄と、配役はかなり豪華。当時の角川映画はキャスティングも意欲的だった。安藤庄平のカメラによる清澄な映像、そして南佳孝による有名なテーマ曲も印象的。
夕暮の第三京浜をオートバイで走っていた青年ゴローは、白いムスタングから子猫と若い女が放り出される現場に遭遇する。それが切っ掛けになり、ゴローはさち乃と名乗るその女(そして子猫)と一緒に暮らし始める。一方、白いムスタングに乗っていた中年男は福生の旧米軍ハウスで男2人、女1人の奇妙な共同生活を送っている。しかも彼には、別居中の妻と子供がいた。ある日、同居していた男が急死してしまうと、それまで何とかトラブルなくやってきた彼らの生活が揺らいでくる。
ゴローとムスタングの男との間を行ったり来たりするさち乃の行動は承服しがたいし、彼女をはじめ登場人物の内面描写は希薄だ。すべてがサラリと雰囲気だけで流していくような作劇は、藤田敏八監督の手による映画とも思えない。だが、捨てがたいテイストがあるのも事実。
まるでヒッピーのような家族観を持つムスタングの男は、明らかに70年代的(それも初期)の風俗を体現化している。対して、気楽なバイト暮らしでノンシャランに生きるゴローは、ネアカ万能主義(?)の80年代の空気をまとっている。時代の変わり目をとらえたこの構図は面白い。片岡義男による原作は読んでいないが、この作家らしいスタイリッシュなタッチはよく表現されていると思う。
キャストの中では、何といってもさち乃に扮する浅野温子の存在感が圧倒的だ。ゴローはもちろん、いいトシのムスタングの男まで振り回されるのは当然だと思わせるほど、奔放な魅力が爆発している。この頃の若手女優は、当たり前のように“身体を張って”くれたのだが、今から考えると隔世の感がある(笑)。古尾谷雅人と山崎努をはじめ、室田日出男に伊丹十三、岸部一徳、石橋蓮司、原田芳雄と、配役はかなり豪華。当時の角川映画はキャスティングも意欲的だった。安藤庄平のカメラによる清澄な映像、そして南佳孝による有名なテーマ曲も印象的。