(原題:RED JOAN)興味深い映画である。主人公のかつての言動は、今から考えると完全に間違っている。しかし、あの時代にあって斯様な境遇に身を置いた者が、果たして理に適った行動が出来たのかというと、それは議論の余地がある。いずれにしろ歴史を振り返る際は、現在の価値観で物事を結論付けてはいけないということだ。
2000年、ロンドン近郊のベクスリーヒースの街で穏やかな一人暮らしを送っていた老女ジョーン・スタンリーは、突然MI5の捜査官に逮捕されてしまう。容疑は、第二次大戦直後に核開発の機密情報をソ連のKGBに引き渡したこと。彼女はその頃、イギリスの核技術開発をおこなっていた非鉄金属研究協会に勤めていたのだ。
ジョーンの息子で弁護士のニックは、母親の無実を信じ彼女の弁護を担当するが、実はMI5は長きにわたってジョーンの身辺を調査し、証拠を集めていたのだ。次々に露わになる彼女の衝撃的な過去に、ニックは動揺を隠せない。スパイ容疑をかけられた元国家公務員メリタ・ノーウッドの人生をモデルにした実録物だ。
ジョーンが機密情報を東側に漏洩したのは、広島への原爆投下がきっかけだった。その恐るべき破壊力を目の当たりにした彼女は、この兵器を一方の陣営だけが保有すると、いずれ世界中が蹂躙されてしまうという危機感を抱く。それを回避するには、ワールドワイドな戦力の均衡を実現せねばならないという正義感に駆られ、実行に及んだのだ。
しかし、先日観たアニエスカ・ホランド監督の「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」においても示される通り、当時のソ連はナチス・ドイツも真っ青の超独裁国家で、国民は貧窮に喘いでいた。だが、対外的には社会主義の理想ばかりをPRし、それに共感するインテリ層が世界中に溢れていたのだ。だから、ジョーンの所業も愚行として片付けられない。終盤での主人公の独白にも、イデオロギー臭を感じつつも妙に説得力がある。見方を変えると、歴史解釈も大きく異なってくる。そんなアンビバレンツを描き出す本作のスタンスには、納得出来るものがある。
トレヴァー・ナンの演出はケレン味は無いが、着実にドラマを進めている。ジョーン役のジュディ・デンチはさすがの貫禄だが、若い頃の主人公に扮するソフィー・クックソンの健闘が光る。ジョージ・フェントンの音楽も効果的だ。