(原題:Permanent Vacation)80年作品。ジム・ジャームッシュ監督のデビュー作で、彼がニューヨーク大学の大学院映画学科の卒業制作として撮った16ミリ作品である。次作の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(84年)の成功により日本公開され、当時は何かと二作目との対比で語られるケースが目立ったように思うが、本作単体としても独特の魅力を放っている。
ニューヨークの裏街に住む16歳のアロイシュス・パーカー(通称アリー)は、人生において定着は悪であり常に移動しなければならないと思い込んでいる、いわゆる“意識高い系”の少年だ。そのポリシーをガールフレンドのリーラに説くが、理解されない。彼は精神病院に入っている母親を見舞うが、もはや意思の疎通が出来なくなっていた。
次にビルの前にたむろする少年たちやスペイン語の歌を歌っている少女たち、そして映画館のスタッフに話し掛けるが、相手にされない。黒人のジャンキーが絡んでくるが、彼ともコミュニケーションが取れない。その晩、アリーはリーラのアパートを尋ねるものの、すでに彼女はどこかに行ってしまった。いよいよニューヨークでの生活に見切りを付けたアリーは、一念発起して旅立つことにする。
本作は主人公が“ここではない、どこか”に向かう映画だが、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は別の場所(ヨーロッパ)から主人公がやって来る作品だ。これはジャームッシュが二作目にして“覚悟を決めた(どこにも逃げない)”という意味で捉えると面白いが、それは観客が二作目から先に鑑賞しているからこそ言える話で、この映画が撮られた時点での作者のスタンスも興味深いものがある。
アリーは自分のことを誰も分かってくれないと嘆くが、実は責任は自身の言いたいことを伝えられないアリーの方にある。自分で勝手に落ち込んで、勝手にどこか別の場所に行けば何とかなると思っている。まあ、青臭いと言えばそれまでだが、この年代の若者ならば周囲との距離感を覚えてメンタルがいわば“休眠状態”になるというのも、けっこう共感するモチーフなのだ。
周りが分かってくれなくても良いではないか、それまで“今日が良ければそれがすべて”の永遠の休暇(パーマネント・バケーション)を取得するのも、悪いことではない。そんな甘酸っぱい想いが横溢して、ラストは感動すら覚えてしまう。ジャームッシュの演出は荒削りだが、時折ハッとするようなシーン(たとえば、完全無視を決め込んでいるリーラのそばで、アリーが踊る場面)があって飽きさせない。主役のクリス・パーカーとリーラ・ガスティルも良い演技をしている。
ニューヨークの裏街に住む16歳のアロイシュス・パーカー(通称アリー)は、人生において定着は悪であり常に移動しなければならないと思い込んでいる、いわゆる“意識高い系”の少年だ。そのポリシーをガールフレンドのリーラに説くが、理解されない。彼は精神病院に入っている母親を見舞うが、もはや意思の疎通が出来なくなっていた。
次にビルの前にたむろする少年たちやスペイン語の歌を歌っている少女たち、そして映画館のスタッフに話し掛けるが、相手にされない。黒人のジャンキーが絡んでくるが、彼ともコミュニケーションが取れない。その晩、アリーはリーラのアパートを尋ねるものの、すでに彼女はどこかに行ってしまった。いよいよニューヨークでの生活に見切りを付けたアリーは、一念発起して旅立つことにする。
本作は主人公が“ここではない、どこか”に向かう映画だが、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は別の場所(ヨーロッパ)から主人公がやって来る作品だ。これはジャームッシュが二作目にして“覚悟を決めた(どこにも逃げない)”という意味で捉えると面白いが、それは観客が二作目から先に鑑賞しているからこそ言える話で、この映画が撮られた時点での作者のスタンスも興味深いものがある。
アリーは自分のことを誰も分かってくれないと嘆くが、実は責任は自身の言いたいことを伝えられないアリーの方にある。自分で勝手に落ち込んで、勝手にどこか別の場所に行けば何とかなると思っている。まあ、青臭いと言えばそれまでだが、この年代の若者ならば周囲との距離感を覚えてメンタルがいわば“休眠状態”になるというのも、けっこう共感するモチーフなのだ。
周りが分かってくれなくても良いではないか、それまで“今日が良ければそれがすべて”の永遠の休暇(パーマネント・バケーション)を取得するのも、悪いことではない。そんな甘酸っぱい想いが横溢して、ラストは感動すら覚えてしまう。ジャームッシュの演出は荒削りだが、時折ハッとするようなシーン(たとえば、完全無視を決め込んでいるリーラのそばで、アリーが踊る場面)があって飽きさせない。主役のクリス・パーカーとリーラ・ガスティルも良い演技をしている。