(原題:SORRY WE MISSED YOU )引退宣言を撤回したケン・ローチ監督が「わたしは、ダニエル・ブレイク」(2016年)に続いて撮った本作は、前作よりも切迫度が増している。もはやダニエル・ブレイクのようなヒーロー的な振る舞いをする者はおらず、一般の小市民が窮地に陥ってゆく様子を定点観測するのみだ。それだけに、インパクトが高い。
ニューカッスルに住む中年男リッキーは、マイホーム購入の夢を叶えるために、フランチャイズの宅配ドライバーとして独立することを決める。しかし、自営業者とは名ばかりで、実際は本部からコキ使われる毎日だ。
介護福祉士である妻アビーの車を売り払って輸送用バンを買うが、それがアビーの仕事を圧迫することになり、働き詰めのまま高校生の長男セブと小学生の長女ライザ・ジェーンと話をする時間も無くなってしまう。やがてセブが学校で問題を起こすが、リッキーとアビーは多忙のためその対応も出来ない。ある日、リッキーが仕事中にトラブルに遭遇。しかし、本部はそんなことにお構いなしに彼に新たなノルマを課すのだった。
観る者によっては、この家庭の有様は“甘い”あるいは“恵まれている”と感じるかもしれない。夫婦仲は良いし、長男は不祥事を起こすものの、子供たちは親思いだ。それどころか、リッキーはセブに対して今まで手を上げたことさえ無い。これが少しでも問題のある家庭だったら悲劇性はさらに大きくなるところだが、作者としては善良な庶民と理不尽な搾取のシステムとを対比する意味でこういう設定にしたのであろう。また、それは成功していると思う。
グローバリズムが幅を利かせ、全てが効率一辺倒。しわ寄せはリッキーのような労働者に来るのだ。冷血に見える本部のスタッフだって、根っからの悪人ではない。彼らも職務に忠実に従っているだけだ。しかし、社会の根幹が人間性を阻害する構造に移行しているため、皆頑張れば頑張るほどスパイラル式に事態は悪化する。
儲けているのは一部の“上級国民”だけで、落ちこぼれた者たちを“自己責任”という御題目で切り捨てるのみ。この構図はイギリスだけではなく、世界中を覆っている。特に我が国は酷いと思うのだが、映画作家たちはそんな事態に対し見て見ぬ振りを決め込んでいるようだ。
ローチの演出は堅牢そのもので、一分の隙も無い。主役のクリス・ヒッチェンズとデビー・ハニーウッドは地味ながら、優れた演技を見せる。ジョージ・フェントンの音楽も効果的だ。そして、劇中ではこの原題の意味するところが示されるが、それが何とも切ない。観る価値十分の、英国の秀作だ。