思い入れたっぷりに撮られているようだが、私は共感出来なかった。これはいわゆる“世代の違い”に起因するのかもしれない。監督の白石和彌は74年生まれ。団塊ジュニアと呼ばれる年代だが、彼らの親である団塊の世代は、まあいろいろと毀誉褒貶のある(どちらかといえば“毀”と“貶”が多い)人たちだった。特に、新左翼に対するシンパシーについてはしばしば取り沙汰される。
もちろん団塊ジュニアが親世代の価値観を受け継いでいるとは断定出来ないが、まったく無いとは言い切れないだろう。本作には、団塊世代の特徴だった(と言われる)左傾イデオロギーのモチーフが満載で、団塊世代より下で団塊ジュニアより上の私にとっては、まったくピンと来ない。観ていて疲れたというのが、正直な感想だ。
1969年春。定職も無くブラブラ暮らしていた21歳の吉積めぐみは、新宿のフーテン仲間の秋山道男に誘われ、映画監督の若松孝二が率いるプロダクションに参加する。そこには当時過激なピンク映画を作り出すことで知られていた若松をはじめ、足立正生や小水一男、高間賢治などの個性的な面子が顔を揃えていた。めぐみは若松プロで助監督として働き始めるが、ワンマンな若松監督の姿勢に閉口しながらも、次第に仕事に慣れていく。だが、秋山の離脱と共に若松プロには政治活動に熱心な若者たちが出入りするようになり、通常の映画製作会社とは違う様相を呈していく。
まず、主人公であるめぐみがなぜ映画の世界に飛び込んだのか、十分な説明が成されていない。そして、どうして彼女が映画作りに魅了されていくようになったのか、それも表現出来ていない。少なくとも劇中の撮影風景には、一般人を否応なく引き込んでしまうような蠱惑的な吸引力は感じられない。何しろピンク映画にも関わらず、ちっともエロティックではないのだ。
ここには“エネルギッシュな若松プロだから、その仕事ぶりには魅力があるのは当然だ”あるいは“この時代の若者は、政治に興味を持っていたものだ”といった御題目しかないと思う。めぐみの心境の変化や、終盤の行動の意味も、描写が不十分だ。扮する門脇麦の高い演技力を持ってしても、説得力を欠く。
足立正生が後日過激派に身を投じたように、若松プロは赤化の一途を辿るように見えるが、このあたりの扱いは肌に合わない。有り体に言えば、愉快ならざるものを感じる。鑑賞後、この映画を観るよりも、若松監督の昔の作品をチェックする方がよっぽどマシなのではないかと思ってしまった。若松役の井浦新をはじめ、山本浩司や岡部尚、大西信満、タモト清嵐といったキャストは熱演だが、作品自体がこの程度なので、評価は出来ない。