(原題:GUILTY BY SUSPICION )90年作品。タイトルの“瞬間”は“とき”と読ませる。マッカーシズムに翻弄されたハリウッドの実態を描く野心作。監督のアーウィン・ウィンクラーはプロデューサーとして有名だが、演出家としては彼が60歳ぐらいの時に撮った本作がデビュー作である。おそらくは長年温めていた題材であるためか、かなり重量感のある仕上がりになっており、鑑賞後の満足度も高い。
1951年、フランスからアメリカに帰国した有名監督のデイヴィッド・メリルは、歓迎パーティーの席上で女優のドロシー・ノーランが脚本家である夫のラリーを罵倒する場面に出くわす。何でも、ラリーは共産主義者を取り締まる非活動委員会に友人を売ったらしいのだ。翌日、今度はデイヴッドが大物プロデューサーのダリル・ザナックから自身がブラックリストに載っていることを告げられる。間もなくFBIの差し金により元妻や息子の立場が危うくなり、デイヴッドは撮影所には出入り禁止になる。
彼はB級映画の仕事さえ無くなり、求職のためニューヨークへ行くものの、そこでもFBIは妨害してくる。そして委員会の呼び出しを受けた友人のバニーに頼まれて“名前を売る”ことを承知するが、デイヴィッド自身も審問会で喚問される日が来た。彼は欺瞞に満ちた委員会に対して、敢然と立ち向かう。
マッカーシズムの失態を細かく踏み込んで描写しており、その不条理は息苦しくなるほどリアルだ。主人公はいわゆる“ハリウッド・テン”の面々のようなタフな男としては扱われない。名の売れた監督とはいえ、理不尽な境遇に振り回されるだけの一般人だ。
しかし、それなりの矜持はある。審問会をうまく切り抜けるには、密告者・内通者になる必要があるが、誰も反米的な活動を行っていないのに他人をスケープゴートに仕立て上げるわけにいかないのだ。
ウィンクラーの演出はパワフルで、不穏な空気感を伴う前半から、畳み掛けるような後半の展開に繋げる手腕は確かだ。ラストはこの映画の題材から勘案すると、御都合主義的に過ぎるとの指摘もあるだろう。でも、作者の良心を確認するという意味で、大きな瑕疵にはなっていないと思う。
主演のロバート・デ・ニーロをはじめ、アネット・ベニング、ベン・ピアザ、クリス・クーパー、そしてマーティン・スコセッシと、皆的確な仕事をこなしている。ミハエル・バルハウの撮影とジェームズ・ニュートン・ハワードの音楽も良い。それにしても、昨今の情勢を見ればマッカーシズムのようなヒステリー現象を“過去の滑稽な出来事”として片付けることは出来ないというのは、何とも釈然としない気分だ。