新時代の“サラリーマン映画”であり、評価できる。特に昨今の就職難で、ようやく正社員として採用されたはいいが、居場所が見つからずに悩んでいる若い社会人に奨めたい。
90年代、大手出版社に勤める若手社員の馬締光也は学生時代に言語学を専攻していたこともあり卓越した言葉のセンスを持っているが、所属している営業部ではそれを活かすチャンスも無く、冷や飯を食わされている。そんな中、辞書編集部のベテラン編集者が退職するのをきっかけに配置換えが行われ、彼は辞書の作成に携わることになる。ある日馬締は、大家の孫娘の香具矢に出会い一目惚れする。新しい仕事に新しい人間関係を得て、それまでの静かだが単調だった彼の人生は、確実に変化を遂げていく。
冒頭で“新時代の映画”と述べたのは、ひとえに主人公の造型にある。住処こそ昭和テイスト満載の古びた下宿屋だが、馬締は典型的な今風の草食系男子だ。強い欲望には無縁で、淡々と毎日をマイペースに送ることにしか興味は無い。それが少しばかり“外の世界”に触れたおかげで彼の姿勢は能動的になっていくのだが、それが劇的ではないところが興味深い。
香具矢と仲良くなって所帯を持っても、彼は下宿屋を出て行かない。外部に目を向けようとも、自分の世界はしっかりと持っている。それがまた不自然ではないように描かれているのは映画の手柄だが、実際にも自己の価値観をキープすることと、周囲に溶け込んでいくらかでも外向的に振る舞うこととは、決してトレードオフの関係にはならない。早い話が、自分だけのオタクな部分を保持していても、世界は広げられるのだ。こういう枠組みがあることを知れば、自己の嗜好と周囲の状況とのギャップに戸惑う若い衆も心が軽くなるのではないだろうか。
辞書作りのプロセスは実に面白い。果たしてこれが実際の辞書編集の業務工程を正確にトレースしているのかどうかは分からないが、言葉の一つ一つを大事にしていく編集者達の矜持には感服した。
監督の石井裕也は今回初めて(自作ではない)既成の原作と脚本に準拠した仕事をこなしているが、前作と前々作にあった独りよがりの部分がなくなり、スムーズな作劇に専念しているのが良い。若い作家にとって作り方のスタンスを変えてみるのも大事な体験になるし、そのこともまた本作に描かれている“自身のポリシーと状況との折り合い”を象徴していると言える。
主演の松田龍平は、絵に描いたようなマジメ青年をクサくなる一歩手前で踏みとどまり上手く表現している。ヒロイン役の宮崎あおいも魅力的で、作品全体に柔らかい雰囲気を付与させている。オダギリジョーや池脇千鶴、黒木華といった若手・中堅のキャストや八千草薫、小林薫、加藤剛などの重量級、さらには渡辺美佐子や伊佐山ひろ子といったクセ者まで配してドラマに厚みを持たせることには抜かりは無い。
そして特筆すべきは藤澤順一のカメラで、落ち着いた色調と奥行きのある画面造型が実現しており、その意味でも見逃せない映画である。