(原題:The Master)人間関係の玄妙さを巧みに描いた佳編である。第二次大戦で太平洋戦線に従軍していたフレディは、戦争のストレスおよび現実逃避のために飲み続けていた酒によりメンタル面で重大な障害を負ってしまう。戦争が終わっても職を転々とし、根無し草のような生活を送る彼が迷い込んだのは、結婚パーティーが行われている客船だった。
船の持ち主はランカスター・ドッドなる人物で、彼は“ザ・コーズ”という新興宗教を主宰している。ドッドのカリスマ的存在感に惹かれたフレディは、彼と行動を共にするようになる。
この教団のモデルになっているのはSF作家L・ロン・ハバードが1950年代に設立した“サイエントロジー”だが、本作は新興宗教の教義のウサン臭さとか、その怪しげな体制を糾弾するような類いのシャシンではない。焦点になっているのは主役二人のキャラクターである。
ドッドには献身的で貞淑に見える若い妻ペギーがいるが、教団の実権を握っているのは彼女の方なのだ。ペギーは人を惹き付ける力を持つドッドを裏から巧みに操作しており、ドッドの方もそれを承知していながら元々確固とした信念に欠けた身であるため、唯々諾々と妻に従うしかない。そんな状態を打破するがごとく現れたのがフレディだ。
彼は教団のテーゼなんかには興味は無い。ただ、屈折した心情の持ち主であるドッドと、奇矯な言動を遠慮会釈なく振りまくフレディは、いわゆる“ウマが合う”状態になったのだ。互いに欠けたピースを補い合う・・・・と書けば聞こえは良いが、要するに歪な形での“マッチング良好”であるため、そこには互いに向上心を高め合うだの何だのといったポジティヴな側面は存在しない。組織の主宰者が内面が破綻したような男と勝手気ままに徒党を組んでいるため、教団の秩序が揺らいで周囲は困惑するばかり。
この二人の関係性を、映画は明確に突き詰めたりはしない。最後まで傍観者的に眺めるだけである。しかし、ならば描き方が曖昧な作品なのかというと、そうではない。奇態な関わり合いをレアな状態で差し出すことにより、人間関係の“他からは推しはかれない不思議さ”を描出しているのだ。いわばその“不可思議さ”こそが真の普遍性だと言えるだろう。
前作「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」に引き続き、ポール・トーマス・アンダーソンの演出は冴えている。ヘタな監督がやると要領を得ない失敗作になりそうな題材を、テンポの良いリズムと丹念なシークエンスの積み上げにより、観客を飽きさせない娯楽作に仕上げている。フレディ役のホアキン・フェニックス、ドッドに扮するフィリップ・シーモア・ホフマン、そしてペギーを演じるエイミー・アダムス、いずれも素晴らしいパフォーマンスである。
時代色を良く出している美術・撮影も見事だ。さらにジョニー・グリーンウッドの音楽は彼のベストスコアに指を折りたいような出来で、サントラ盤もお奨めだ。