92年作品。自分の愛する女性の命があと一週間しかないと知ってしまった男が取る行動とは? 主人公に織田裕二、相手役に和久井映見、ドラマのキーワードを握る“天使”に大地真央、監督は「君は僕をスキになる」(89年)の渡邉孝好。
結論から先に言わせてもらえば、失敗作である。この映画は意図がミエミエだ。つまり、「ゴースト ニューヨークの幻」(90年)のオカルト的ロマンティックさに「ベルリン・天使の詩」(87年)のエッセンスをふりかけ、エルトン・ジョンの歌うテーマ曲に乗せて観客の涙を絞り出そうという魂胆である。ま、それがうまくいけば文句はないのだが、こう作りが下手クソだとシラけてしまう。
冒頭5分間でテーマ曲に乗せて主役2人の恋の顛末が語られるが、それだけ観ればあとはどうでもいい気がする。序盤ですでに完結している話であり、映画自体が作る必要があまりないラブストーリーの後日談となっているため、以降は映画は物語を成立させるための辻褄合わせに終始すると言ってもいい。
そして何といっても大地真央の“天使”が一番の敗因であろう。彼女は全然“天使”らしくないのだ。遊び好きのOLみたいなキャラクターにしてしまったため、“天使”であることを無理矢理観客に納得させるのに相当な時間と手間がかかり、ドラマ全体がゆがんでしまった。ド下手なSFXは予算の関係で仕方がないとしても、ガッカリしたのは、苦しい設定をなんとかしようと、登場人物に説明的セリフを洪水のようにさせていることだ。言いたいことを映像で見せられなければ、映画を作る意味がない。
かつて天使だった老人を登場させるあたりは「ベルリン・天使の詩」のものまねだが、“本家”ほどの威厳はまったくなし。ラスト近くのニュージーランド・ロケなんて取って付けたようだが、大地真央の“抱いて”のセリフ(映画を観ないと意味がわかんないと思うけど)にひっくり返った観客は私だけではないはずだ。伏線も暗示もへったくれもなく、途中で製作者たちが映画を放り投げてしまったような印象を受けた。
ラストの処理も予定調和で、“ああそうですか”とアクビしながら言いたくなった。結構キャスティングはいいのに、脚本のツメが大甘なもんだから、コケてしまった典型的な例だ。この頃はこういうシャシンも少なくなかったようだ。
結論から先に言わせてもらえば、失敗作である。この映画は意図がミエミエだ。つまり、「ゴースト ニューヨークの幻」(90年)のオカルト的ロマンティックさに「ベルリン・天使の詩」(87年)のエッセンスをふりかけ、エルトン・ジョンの歌うテーマ曲に乗せて観客の涙を絞り出そうという魂胆である。ま、それがうまくいけば文句はないのだが、こう作りが下手クソだとシラけてしまう。
冒頭5分間でテーマ曲に乗せて主役2人の恋の顛末が語られるが、それだけ観ればあとはどうでもいい気がする。序盤ですでに完結している話であり、映画自体が作る必要があまりないラブストーリーの後日談となっているため、以降は映画は物語を成立させるための辻褄合わせに終始すると言ってもいい。
そして何といっても大地真央の“天使”が一番の敗因であろう。彼女は全然“天使”らしくないのだ。遊び好きのOLみたいなキャラクターにしてしまったため、“天使”であることを無理矢理観客に納得させるのに相当な時間と手間がかかり、ドラマ全体がゆがんでしまった。ド下手なSFXは予算の関係で仕方がないとしても、ガッカリしたのは、苦しい設定をなんとかしようと、登場人物に説明的セリフを洪水のようにさせていることだ。言いたいことを映像で見せられなければ、映画を作る意味がない。
かつて天使だった老人を登場させるあたりは「ベルリン・天使の詩」のものまねだが、“本家”ほどの威厳はまったくなし。ラスト近くのニュージーランド・ロケなんて取って付けたようだが、大地真央の“抱いて”のセリフ(映画を観ないと意味がわかんないと思うけど)にひっくり返った観客は私だけではないはずだ。伏線も暗示もへったくれもなく、途中で製作者たちが映画を放り投げてしまったような印象を受けた。
ラストの処理も予定調和で、“ああそうですか”とアクビしながら言いたくなった。結構キャスティングはいいのに、脚本のツメが大甘なもんだから、コケてしまった典型的な例だ。この頃はこういうシャシンも少なくなかったようだ。