基本的に、中高生までを対象にした映画であろう。大人が観て楽しめるものだとは、とても思えない。とにかく筋書きがいい加減で、物語の体を成していないのだ。作者の新海誠には脚本の書き方を一から勉強し直せと言いたい。
岐阜県の飛騨地区にある糸守町に小学生の妹と祖母の3人で暮らす女子高生・宮水三葉(声:上白石萌音)は、浮かない日々を過ごしていた。地域の神事に参加しなければならないし、町長である父の選挙運動のしがらみで余計なプレッシャーがのし掛かってくる。彼女はいつかこの小さな町を飛び出し、東京に行くことを切望していた。ある日、三葉は自分が男の子になる夢を見る。どうやら東京に住んでいる同じ年の高校生になりきっているようで、彼女は戸惑いながらも夢の中の出来事を楽しむのだった。
一方、東京で暮らす男子高校生・立花瀧(声:神木隆之介)は近頃ヘンな夢をよく見る。自分が見知らぬ山奥の町で女子高生になっているのだ。ランダムで入れ替わる身体と生活に驚きつつも、2人は何とかその現実を少しずつ受け入れようとする。折しも千年に一度という彗星の接近を間近に控え、やがて三葉と瀧は事態は単なる2人だけの問題ではないことに気付いてゆく。
大林宣彦監督の「転校生」(82年)をはじめとして、こういう“入れ替わりネタ”を扱った作品は少なくないが、設定に関する説得力ではこの映画は及第点には達していない。そもそも、何が切っ掛けでこのシチュエーションにおける“入れ替わり”が始まったのか、全く示されていない。
さらに、主人公2人が“二重生活”を送るうちに互いを憎からず思うようになるのだが、そのプロセスが描かれていない。何となく“そういう感じ”になったことが提示されるのみで、切迫したパッションや愛情表現は皆無だ。だいたい、この異様な事態に対して、相手を好きになることよりもプロフィールなどを探る方が優先されるべきではないのか。
映画が進むと三葉と瀧の属する時制が異なることが明らかになるのだが、どうしてそうなのかまるで不明。もちろん“合理的(科学的)な説明”などは要らないが、架空のハナシにおいてもそれなりの筋を通してもらわないと観る側は面食らうばかりだ。すべてを“時間軸は交差している”とか“組紐と口噛酒がメタファーだ”とか何とかという抽象的な物言いで片付けてもらっては困る。
後半、瀧は三葉の住む町を探しに飛騨に出かけていくのだが、場所が突き止められずに右往左往する。しかし、これもオカシイ。過去に大きな災害があった地点であることは分かっているのに、見つけられないはずが無いのだ。さらに、糸守町は遠い過去にも同じような災禍に見舞われているのだという。地球上で千年(あるいはそれ以上)に一回しか無いような災害が、どうして同じ場所で起こるのか。明らかに無理筋・噴飯物の設定で、呆れるしかない。
終盤の展開に至っては、三葉の友人が簡単に爆発物を持ち出したり、三葉が父親に対して受け入れられる見込みの薄い説得を試みたりと、強引すぎるプロットの釣瓶打ちである。題名通り、2人はよく相手の名前を忘れてしまって“君の名は?”と問いかけるのだが、その“忘れるタイミング”には何の根拠も無く、御都合主義の極みである。その要領の悪さをカバーするかのように、山のような“説明的セリフ”が挿入されるものの、何のフォローにもなっていない。
ただし、映像は見事だ。ここだけ見ていると、不出来なシナリオのことを一時は失念してしまうほどに(笑)、目覚ましい美しさを誇っている。まあ、言い換えれば“映像のみのシャシンだ”ということにもなるが・・・・。冒頭で“中高生向け”と書いてしまったが、少しでも物事を筋道立てて考えることに長けた中高生ならば、本作の不備を容易に指摘することも出来るだろう。
なお、全編に渡ってRADWIMPSとかいうバンドの楽曲がひっきりなしに流れるが、これがヒドい。自己陶酔的なフレーズの羅列としか思えない歌詞と、工夫の無いメロディ。第一、画面と全然合っていない。送り手の音楽に対するセンスを疑うような扱いであり、大いに盛り下がった。
岐阜県の飛騨地区にある糸守町に小学生の妹と祖母の3人で暮らす女子高生・宮水三葉(声:上白石萌音)は、浮かない日々を過ごしていた。地域の神事に参加しなければならないし、町長である父の選挙運動のしがらみで余計なプレッシャーがのし掛かってくる。彼女はいつかこの小さな町を飛び出し、東京に行くことを切望していた。ある日、三葉は自分が男の子になる夢を見る。どうやら東京に住んでいる同じ年の高校生になりきっているようで、彼女は戸惑いながらも夢の中の出来事を楽しむのだった。
一方、東京で暮らす男子高校生・立花瀧(声:神木隆之介)は近頃ヘンな夢をよく見る。自分が見知らぬ山奥の町で女子高生になっているのだ。ランダムで入れ替わる身体と生活に驚きつつも、2人は何とかその現実を少しずつ受け入れようとする。折しも千年に一度という彗星の接近を間近に控え、やがて三葉と瀧は事態は単なる2人だけの問題ではないことに気付いてゆく。
大林宣彦監督の「転校生」(82年)をはじめとして、こういう“入れ替わりネタ”を扱った作品は少なくないが、設定に関する説得力ではこの映画は及第点には達していない。そもそも、何が切っ掛けでこのシチュエーションにおける“入れ替わり”が始まったのか、全く示されていない。
さらに、主人公2人が“二重生活”を送るうちに互いを憎からず思うようになるのだが、そのプロセスが描かれていない。何となく“そういう感じ”になったことが提示されるのみで、切迫したパッションや愛情表現は皆無だ。だいたい、この異様な事態に対して、相手を好きになることよりもプロフィールなどを探る方が優先されるべきではないのか。
映画が進むと三葉と瀧の属する時制が異なることが明らかになるのだが、どうしてそうなのかまるで不明。もちろん“合理的(科学的)な説明”などは要らないが、架空のハナシにおいてもそれなりの筋を通してもらわないと観る側は面食らうばかりだ。すべてを“時間軸は交差している”とか“組紐と口噛酒がメタファーだ”とか何とかという抽象的な物言いで片付けてもらっては困る。
後半、瀧は三葉の住む町を探しに飛騨に出かけていくのだが、場所が突き止められずに右往左往する。しかし、これもオカシイ。過去に大きな災害があった地点であることは分かっているのに、見つけられないはずが無いのだ。さらに、糸守町は遠い過去にも同じような災禍に見舞われているのだという。地球上で千年(あるいはそれ以上)に一回しか無いような災害が、どうして同じ場所で起こるのか。明らかに無理筋・噴飯物の設定で、呆れるしかない。
終盤の展開に至っては、三葉の友人が簡単に爆発物を持ち出したり、三葉が父親に対して受け入れられる見込みの薄い説得を試みたりと、強引すぎるプロットの釣瓶打ちである。題名通り、2人はよく相手の名前を忘れてしまって“君の名は?”と問いかけるのだが、その“忘れるタイミング”には何の根拠も無く、御都合主義の極みである。その要領の悪さをカバーするかのように、山のような“説明的セリフ”が挿入されるものの、何のフォローにもなっていない。
ただし、映像は見事だ。ここだけ見ていると、不出来なシナリオのことを一時は失念してしまうほどに(笑)、目覚ましい美しさを誇っている。まあ、言い換えれば“映像のみのシャシンだ”ということにもなるが・・・・。冒頭で“中高生向け”と書いてしまったが、少しでも物事を筋道立てて考えることに長けた中高生ならば、本作の不備を容易に指摘することも出来るだろう。
なお、全編に渡ってRADWIMPSとかいうバンドの楽曲がひっきりなしに流れるが、これがヒドい。自己陶酔的なフレーズの羅列としか思えない歌詞と、工夫の無いメロディ。第一、画面と全然合っていない。送り手の音楽に対するセンスを疑うような扱いであり、大いに盛り下がった。