(原題:Teorema )1968年イタリア作品。監督は鬼才と言われたピエル・パオロ・パゾリーニ。作られた当時は斬新で高い評価を受けていても、時が経つとその“図式”を見透かされてしまい、見せられても鼻白む結果になることは少なくない。この映画もその典型ではないかと思う。
ミラノの郊外に大邸宅を構える実業家パオロの元に、ある日、謎の配達夫によって一通の電報が届けられる。内容は“明日着く”とだけあり、発信人の名前も書いていない。翌日、パオロ邸で開かれたパーティの席に、一人の見知らぬ青年が紛れ込む。家人は不審に思ったが、彼はそのまま屋敷に住みついてしまった。それからパオロの一家は常軌を逸した行動を取るようになる。
人目を憚らず家族が好き勝手に振る舞うようになった後、青年はフラリと家を出ていく。しかしパオロたちの“乱行”はその後もエスカレートするばかりで、家庭は完全に崩壊してしまう。そんな中、家政婦のエミリアだけは何かを悟ったように田舎に帰り、奇跡を起こし始める。
早い話が、これは森田芳光監督の「家族ゲーム」(83年)や深田晃司監督の「歓待」(2010年)と同じ構図の映画である。もちろんこれらの作品は「テオレマ」より後に作られたのだが、皮肉なことに今日でも通用する普遍性を持った映画は、これら“後発組”だったりする。
猫かぶってた連中が、異分子が入り込んだことによってキレるという、よく考えればありがちな設定。それをイタリア社会特有の階級闘争うんぬんや宗教的テイストを絡めて高踏的に難解っぽく描いたのが当時としては目新しかったのであろう。でも今観たら冗談としか思えない。エミリアがもたらす奇跡と、その後の彼女の行動は思い入れたっぷりに描かれるが、宗教に疎いこちらから見れば珍妙にしか思えないのが辛い。
青年役のテレンス・スタンプはまさに怪演。彼の代表作であるウィリアム・ワイラー監督の「コレクター」(65年)に並ぶ変態ぶりだ(笑)。シルヴァーナ・マンガーノやマッシモ・ジロッティ、ラウラ・ベッティといった他の面子も濃い演技を披露している(ついでに言えば、ジロッティは体毛も濃い ^^;)。音楽はエンニオ・モリコーネで、ニューロティックなスコアを披露している。なお、私はこの映画を某ミニシアターの特集上映で観たのだが、ラスト近くで観客席のあちこちから“何だこりゃ”という呟きが聞こえてきたのには苦笑した。