興趣が尽きない映画だ。題名通り、何が本当で何がウソなのか、どこまでが事実でどこからが作りものなのか、観る者の感性や観る局面によってさまざまな解釈が出来る、まさに捉えどころのない怪作である。ただ、虚実取り混ぜたような作劇の中に、確実に見えてくる“真実”がある。その構図が実にスリリングだ。
この映画の中心人物は、2014年にゴーストライター騒動で日本中の注目を集めた佐村河内守なる男。それまでは聴覚障害者でありながら「交響曲第1番 HIROSHIMA」などの作品を手がけたとされ、マスコミからは“現代のベートーヴェン”などと持て囃された。しかし音楽家の新垣隆が18年間の長きにわたって彼のゴーストライターを務めていたことを告白。さらには佐村河内の耳は正常だということも暴露した。
佐村河内は確かに作曲活動が自分一人でやっていないことは認めたが、新垣に対して訴訟を起こすだの何のと言い出した後は、表舞台からは姿を消している。そんな佐村河内を映画の素材として取り上げたのが、「A」(97年)などで知られるドキュメンタリー作家の森達也だ。撮影は主に佐村河内の自宅でおこなわれ、彼の妻と親、そして取材のためにやってくるメディア関係者などの姿も映し出す。
当然のことながら、森監督は本作で“真相はこうだ!”みたいな安易な決めつけはしていない。騒動の渦中にあった人物を虚心に捉えるだけだ。しかしながら、テレビのワイドショーみたいな断定的スタンスを廃して向き合ってみると、何と謎の多い“事件”なのだろうかと、驚くばかりだ。
佐村河内は聴覚に障害があると称し、妻の手話による“通訳”によってスタッフの言い分を聞くのだが、外科的な特徴が無い限り、聴力のレベルは“自己申告”によるしかない。だから佐村河内の障害の程度は他人にはハッキリとは分からないのだ。一方の当事者である新垣にしても同様で、佐村河内が聴覚障害を標榜していることを見越してああいう態度を取ったという解釈もできる。
ただ、森監督の興味はそんなところには無い。本作で描かれるのは“事件”を取り巻く周囲の状況と社会的風潮である。佐村河内の耳は聴こえるのかどうか、新垣はゴーストライターとして100%作品に関与しているのかどうか、そんな“白か黒か”という下世話な結論ばかりに拘泥して、肝心の楽曲の製作については知ろうともしない。作者はそんな環境に異議を唱えているようだ。
そして、佐村河内に対して核心に迫った問いかけを行っているのは、有象無象の日本のマスコミではなく、海外メディアだけだという皮肉。その裏には、日本人の音楽(芸術)に対する軽視がありありと見て取れる。森監督の“演出”は巧妙で、常人とはズレた佐村河内の挙動や、妻との関係性、そして毎回振る舞われるケーキや、佐村河内家で飼われる猫などを、いかにも意味ありげに映し出し、観客の興味を途切れさせない。
それにしても、終盤の12分間の展開とラストの処理を見せらせるに及び、佐村河内と新垣にはこうなる前に、何か事態を打開する方法があったのではないかという気になる。ただし、そういう考え方も“FAKE(まやかし)”の一断面だという見方も出来、本作の奥深さと怪しさは増すばかりだ。
この映画の中心人物は、2014年にゴーストライター騒動で日本中の注目を集めた佐村河内守なる男。それまでは聴覚障害者でありながら「交響曲第1番 HIROSHIMA」などの作品を手がけたとされ、マスコミからは“現代のベートーヴェン”などと持て囃された。しかし音楽家の新垣隆が18年間の長きにわたって彼のゴーストライターを務めていたことを告白。さらには佐村河内の耳は正常だということも暴露した。
佐村河内は確かに作曲活動が自分一人でやっていないことは認めたが、新垣に対して訴訟を起こすだの何のと言い出した後は、表舞台からは姿を消している。そんな佐村河内を映画の素材として取り上げたのが、「A」(97年)などで知られるドキュメンタリー作家の森達也だ。撮影は主に佐村河内の自宅でおこなわれ、彼の妻と親、そして取材のためにやってくるメディア関係者などの姿も映し出す。
当然のことながら、森監督は本作で“真相はこうだ!”みたいな安易な決めつけはしていない。騒動の渦中にあった人物を虚心に捉えるだけだ。しかしながら、テレビのワイドショーみたいな断定的スタンスを廃して向き合ってみると、何と謎の多い“事件”なのだろうかと、驚くばかりだ。
佐村河内は聴覚に障害があると称し、妻の手話による“通訳”によってスタッフの言い分を聞くのだが、外科的な特徴が無い限り、聴力のレベルは“自己申告”によるしかない。だから佐村河内の障害の程度は他人にはハッキリとは分からないのだ。一方の当事者である新垣にしても同様で、佐村河内が聴覚障害を標榜していることを見越してああいう態度を取ったという解釈もできる。
ただ、森監督の興味はそんなところには無い。本作で描かれるのは“事件”を取り巻く周囲の状況と社会的風潮である。佐村河内の耳は聴こえるのかどうか、新垣はゴーストライターとして100%作品に関与しているのかどうか、そんな“白か黒か”という下世話な結論ばかりに拘泥して、肝心の楽曲の製作については知ろうともしない。作者はそんな環境に異議を唱えているようだ。
そして、佐村河内に対して核心に迫った問いかけを行っているのは、有象無象の日本のマスコミではなく、海外メディアだけだという皮肉。その裏には、日本人の音楽(芸術)に対する軽視がありありと見て取れる。森監督の“演出”は巧妙で、常人とはズレた佐村河内の挙動や、妻との関係性、そして毎回振る舞われるケーキや、佐村河内家で飼われる猫などを、いかにも意味ありげに映し出し、観客の興味を途切れさせない。
それにしても、終盤の12分間の展開とラストの処理を見せらせるに及び、佐村河内と新垣にはこうなる前に、何か事態を打開する方法があったのではないかという気になる。ただし、そういう考え方も“FAKE(まやかし)”の一断面だという見方も出来、本作の奥深さと怪しさは増すばかりだ。