ハッキリ言ってカス。映画として何も描けていないし、そもそも描こうとする意志があるのかどうかも疑わしい。かつては「泥の河」(81年)や「死の棘」(90年)といった秀作を手掛けた小栗康平監督も、今や“ひょっとしたら認知症に罹患しているのではないか”と思わせるほどの衰えを見せ、寂しい限りだ。
画家の藤田嗣治は27歳で単身渡仏。たちまち頭角をあらわし、モディリアーニやスーチンら当時の有名アーティスト達と親交を結びながら制作に励む。女性関係の方も華やかで、結婚と離婚を幾度となく繰り返す。やがて第二次世界大戦が始まると、ドイツ軍がパリに侵攻する前に日本へ帰国。今度は数多くの戦争協力画を描き、日本美術界の重鎮として名を馳せる。5回目の結婚をした後、疎開先の東北の寒村で敗戦を迎える。
藤田嗣治はエコール・ド・パリのピカソやルソー、キスリングからも一目置かれたアーティストとされている。ならばその鬼才ぶりをスクリーン上に活写しなければならないが、本作はそのような素振りを全く見せない。もちろん“あえて描かない”というやり方もあるが、その場合は“描かない”ことが“別の何か”を浮き上がらせる手段になるのが定石だ。しかし、この映画にはそれも無い。
藤田は漫然とパリに渡り、漫然と絵を描いて、漫然と帰国して、また漫然と絵を描いたという、そんな漫然とした筋書きしか提示されていないのだ。いったい、何のためにこの映画を撮ったのだろうか。
パリを舞台にしたパートは非常にぎこちない。俳優の動かし方やセリフ回し、画面の切り取り方、シークエンスの並べ方、いずれも違和感が横溢している。これはいわば欧米のスタッフが日本を舞台に映画を撮った時のような居心地の悪さと似たようなものだ。ならば藤田の帰国後のエピソードはどうかというと、これまたヒドいものである。紋切り型の登場人物たちが紋切り型のセリフを吐き、藤田は所在無く突っ立っているだけ。
戦争に対する批判めいたモチーフも散見されるが、断片的かつ思わせぶりで何ら観る者に迫ってくるものは無い。その代わりに目立つのが、主人公の心象風景みたいな幻想的な場面の数々。ところがこれもイマジネーションのかけらもなく、安っぽい特殊効果も相まって盛り下がるばかりだ。
戦後藤田はフランスに舞い戻り、最終的には日本と縁を切るのだが、映画はそれに至る葛藤などにはまるで言及していない。戦時中における厭戦感(らしきもの)に丸投げしているようだ。何度でも言うが、いったい何のためにこの映画を撮ったのだろうか。
主演のオダギリジョーをはじめ中谷美紀、岸部一徳、井川比佐志など、皆まるで精彩がない。外国人キャストに至っては論外だ。鑑賞後の徒労感は相当なもので、存在価値は無いと断言できる。