原田眞人監督の代表作「金融腐蝕列島 呪縛」(99年)と似たスタイルの映画だ。つまり、必要以上にカメラは登場人物に“没入”せず、各シークエンスはリズミカルに繋がれるといった手法が採用されている。一見ドライに思えるが、決して内容をデジタル的に割り切って無造作に提示しているのではない。背景を理詰めに説明することにより、主題の重要さをより強調することに貢献している。この意味では成功だろう。
昭和20年7月。戦況が悪化する中、日本は連合軍からポツダム宣言を突きつけられる。政府内では連日、降伏するか本土決戦に踏み込むかの閣議が行われるが結論は出ない。そういう状態の中で8月には広島と長崎に原爆が投下され、さらにソ連も参戦してくるに及び、状況はますます悪化する。4月に総理大臣に就任した鈴木貫太郎は戦争を終結させるべく天皇の“御聖断”を仰ぐ。
一方で陸軍大臣の阿南惟幾は軍部と政府との板挟みになり葛藤するも、何とか事態を打開しようと奔走する。そんな動きに逆らうように、一億玉砕を主張する畑中健二少佐ら陸軍の若手将校たちは、クーデターを起こして本土決戦に突入させようと画策していた。原作は半藤一利によるノンフィクションで、昭和42年の岡本喜八監督版(私は未見)に続いて二度目の映画化になる。
何より良かったのは、話が分かりやすいということだ。映画を作る上では当たり前のことのように聞こえるが、これが案外難しい。一人のキャラクター、あるいは一つのエピソードに必要以上に拘泥してしまい、ストーリーの全貌がハッキリしなくなることも多々あると思う。対してこの作品は、前述のように作劇における情緒性を廃してまずはプロットを積み上げることに専念している。
こうして見通しが良くなった映画自体のコンテンツから浮き上がってきたものは、終戦時におけるギリギリのパワープレイである。戦争は始めるよりも終わらせる方がはるかに難しいと言われるが、ほんの少しのタイミングのズレや、当事者達の決断の逡巡がもしも発生していたら、今の日本は無かったということが改めて強く印象付けられる。それを浮き彫りにする演出は、実にサスペンスフルで飽きさせない。
阿南陸相役の役所広司、鈴木首相に扮する山崎努、内閣書記官長の迫水久常役の堤真一、畑中少佐を演じる松坂桃李など、キャストは皆好演。中でも本木雅弘が演じる昭和天皇は、この時代における天皇の存在感と地位を的確に示していて出色だ。柴主高秀のカメラによる彩度を落とした映像も味わい深く、見応えのある歴史ドラマと言えよう。