(原題:Chappie )面白い。何より、いわゆる“人間性”というものを捨象している点が痛快だ。もっとも送り手は全然そうは思っておらず、作者なりの“人間性”を真面目に提示していると信じているのだろう。もっともそれは世間の認識とは少し外れたフィールドに存在しているものなのだが(笑)、そのギャップが大きな興趣を生む。
2016年、世界有数の犯罪都市である南アフリカのヨハネスブルグでは既存の警官だけでは手が足りなくなり、テトラバール社の開発した警察ロボットが配備されて職務をこなしていた。同社の開発者のディオンは、意志を持つ人工知能(AI)を独自に考案し、廃棄処分される予定だった1台の警察ロボットにAIをインストールしようとする。しかし、その矢先にロボットもろともチンピラやくざ3人組に誘拐されてしまい、AI搭載のロボットは彼らにチャッピーと名付けられてギャングとして育てられるようになる。
そんな中、作るロボットがあまりに過激な戦闘型であるために冷や飯を食わされていたテトラバール社の科学者ヴィンセントは、偶然にチャッピーの存在を知るが、ディオンとチャッピーを始末すれば自分にスポットが当たると思い込んだ彼は、殺人ロボット“ムース”を出動させる。一方でチンピラやくざ達に上納金を要求するギャングの首領も動き出し、事態は混迷の度を増してゆく。
劇中に“人間の脳内情報をマシンに転送する装置”が登場するが、作者の考える“人間性”とは生身の人間に“たまたま”存在しているものに過ぎず、その正体はデータの集積物であり、どのようなメディアにもインポートが可能であると言い切っている。これはあまりにも冒涜的だと感じる向きもあるだろうが、作者のスタンスは決してニヒリスティックではない。
“人間性”そのものを転送することが可能ならば、愛情や真心や、その他プラスの属性のものを伝播させていくことも出来るという、前向きな姿勢をも示唆している。つまり“人間性”は失われないという肯定的なメッセージの表明だ。
すでに各批評で指摘されている通り、この作品は「ピノキオ」を彷彿とさせる図式を持っている。しかし、チャッピーはピノキオみたいに人間になりたいとは微塵も思わない。両親代わりに彼を育ててきたチンピラのカップルや、創造主のディオンとの関係によって培われたチャッピーの“人間性”としてのデータは、入れ物を生身の人間に限定させる必要はないのだ。
快作「第9地区」で世に出たニール・ブロムカンプの演出はパワフルでスピーディー。特にクライマックスの三つ巴のバトルは盛り上がる。ディオン役のデブ・パテルは熱演だが、それよりも男女のチンピラに扮した地元のヒップ・ホップグループ“ダイ・アントワード”のニンジャとヨーランディ・ビッサーの存在感が圧倒的だ。さらにテトラバール社の幹部としてシガニー・ウィーバーを配し、ヴィンセント役には珍しく悪役に回ったヒュー・ジャックマンが怪演を見せる。そしてモーション・キャプチャーでチャッピーを演じ切ったシャールト・コプリーの力量にも感心した。