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ハリウッド製の法廷劇と“エクイティ”

 昔、シドニー・ルメット監督の「評決」やジョエル・シューマカー監督の「評決のとき」を観て、どうしてラストは“ああいう感じ”になってしまうのか疑問に思っていた。何しろ、それまで理詰めで行われていた審議が、最後になってお涙頂戴の温情判決に落ち着いてしまうのである。いつからアメリカの裁判所は人情や泣き落としで判決を下すようになったのかと呆れたものだ。しかし後日、こういう理屈に合わない評決を下すことこそがアメリカの司法界の特色であることを知って驚いた。

 学生時代に法学を専攻した者にとっては常識らしいが(ちなみに私は法学部卒ではない ^^;)、アメリカの法律を含む英米法には判例を重視したいわゆる“コモン・ロー”とは別に、超法規的な法曹界の伝統である“エクイティ”なるものが存在するというのだ。

 エクイティは“衡平法”と訳され、元々はラテン語で“道理があり、適度な権利の行使”を意味する。要するに、判例のないケースではその折々の社会的状況などを考慮して、裁判官が“道徳的な”判断を勝手にして良いという認識である。

 “道徳的”といえば聞こえはよいが、早い話が向こう受けを狙った“大岡裁き”が大手を振ってまかり通ってしまうということだ。まことにアングロサクソンらしいプラグマティズムである。

 だからアメリカでは市民運動家やそのへんのロビイストが司法制度を利用して自分たちに有利になるような判例を作り上げ、既成事実化してしまうことも可能なのである。アメリカ人が大好きな“法の正義”だの“不公正の是正”だのといったスローガンも実際は絵に描いた餅なのだ。

 それどころか、違法か合法かといった本来は純粋に法理面で考えるべき事物も、各当事者が正義か不正義かといった手前勝手な判断で強弁し、結局は押しの強い方が勝つといった無茶苦茶なこともあり得るわけで、前述の映画の結末なんてその最たるものであろう。

 アメリカ人の中では法律的判断と道徳的判断という、時に矛盾する命題が強引に一体化していると言え、つまりは“ダブル・スタンダードをスタンダード化している”という奇妙な考え方が自分たちの立場では違和感なく成立しているらしい。

 アメリカはもともと本国での王室や教会の権威に反発してヨーロッパから脱出した連中が立てた国だ。つまりは権威というものを徹底的に嫌う人々が打ち立てた理想郷である・・・・という建前になっている。だから法律だの政府だのといった“権威”よりも、一般ピープルの平易な価値観の方を優先させようとの姿勢が司法界にも貫かれていると考えて不思議はないだろう(もちろん、アメリカの司法が庶民寄りだというのは幻想に過ぎず、実際はそういうポーズを取っただけの“権威のゴリ押し”が頻出していることは想像に難くないが ^^;)。

 日本は英米法ではなく大陸法を基礎とした法体系を取っている。だから我々にとってアメリカの法律を理解するのは難しく、そのギャップがアメリカ映画の“法廷もの”を理解する上での障害のひとつになっていると思う。

 もっとも、そんな日米の法解釈のズレに気付かずに脳天気にハリウッド製法廷劇の“スカッとした筋書き”に快哉を叫ぶというのも映画の楽しみ方のひとつだろうし、それに他人がケチをつけるのも野暮であるのは間違いない(笑)。
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