(原題:Dead Man Walking)95年作品。観る価値は十分ある力作だが、個人的には評価出来ない。ルイジアナ州刑務所に収監されている死刑囚マシュー(ショーン・ペン)と、精神カウンセラーのような役割で彼に付き添うシスター・ヘレン(スーザン・サランドン)との触れ合いを描く、俳優ティム・ロビンスの2作目の監督作(ロビンスは出演していない)。実話をベースにしている。
ロビンスは死刑廃止論者だ。対して観客側は(特に日本では)死刑存続派が多い。この対立軸で作者の持論を展開していった方が評価しやすかったが、どうもロビンスは迷ってしまったようだ。死刑は国家による殺人だと確信している作者。でも、被害者の家族の悲しみを思うと犯人の死刑執行も当然だとする意見も捨て難い。犯人の家族の立場。被害者の遺族の立場。両面を描くことによって、揺らぐ作者のポリシーが如実に描かれる。
ただ、迷っていること自体は全然悪いことではない。世の中に“絶対”はなく、ましてや人の生死を左右する論題だ。追求すればするほど様々な見方や疑問点が出てきて、結論を出せない。“結論出してから映画を作れ”とは必ずしも言えない。それを観客の側に振ってしまうのも一興だ。ただ、それには作劇の完璧なディテールと、題材の掘り下げ(ここでは“殺人”という歴然とした事実の重み)が必須であることは言うまでもないが・・・・。
ここで最も疑問に思うのが、シスター・ヘレンの立場である。平服の尼僧である彼女は、当初無実を主張するマシューのために再審請求の手助けをしたり、弁護士の手配をしたりする。ところが打つ手すべてが暗転し、マシューの処刑が確定していく中、最後まで彼に付き添っていこうと決心する。なぜか? 彼の心を救うためだという。
私は彼女の意図が理解できない。なぜ凶悪犯の心を救う必要があるのか。マシューは無罪だった・・・・という展開なら納得できるが、彼は罪のない人々を殺したならず者ではないか。彼の口から“許してくれ”なんてセリフが出ようと誰も許さない。憎まれて死のうと後悔して死のうと知ったことではない。彼の魂が救われようが地獄に落ちようが関係ない。極悪人がこの世から消えたという厳然とした事実があるだけだ。
登場人物の一人が言う。“あんな凶悪犯の相手をするヒマがあるなら、子供たちが犯罪に走らないように働いたらどうだい”。その通りである。“あんたは結婚もしないで子供もいないから被害者の家族のことなんかわかんないんだ”。これも納得できる。ヘレンは単なる“第三者”である。聖職であることを免罪符にして世の中を傍観しているに過ぎないではないか。
思わずグッときた場面がある。被害者の親たちが悲しみを切々と訴える場面だ。将来を嘱望されていた若いカップルが理不尽にも命を奪われる。両親は亡き子供が元気だったころの話をする。そして突然の惨劇に動転し、家庭が崩壊していったことも打ち明ける。胸が張り裂けそうになる。そして彼らは言う。“凶悪犯の相手をするのなら出て行ってくれ”。その通りだ。いったいこの女はどの面さげて被害者の家族を訪ねたのか。救うべきは凶悪犯の魂ではなく、愛する者を失った彼らの心だ。
私は“死刑が犯罪の抑止力になるか否か”という議論にはまったく興味がない。大切なのは遺族の心である。そして世論の動向である。“極悪人は、死を持って罪を償うべきだ”という声が大きいのならば死刑は存続すべきである。
かなり重い題材を2時間見せきったロビンズの演出力は認める。撮影もブルース・スプリングスティーンのテーマ曲もいいし、S・ペンの力演も光る。しかし繰り返すが、“被害者の魂も殺人者のそれも同じように救われるべきだ”というキリスト教的視点みたいなものを打ち出しているのなら、私は引くしかない。