(原題:WHAT'S EATING GILBERT GRAPE )93年作品。公開当時は評価が高い映画だった。しかし、スウェーデン出身の監督ラッセ・ハルストレムの出世作「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」ほどの感銘はない。これはアメリカで撮っていることと無関係ではないと思う。
舞台になるアイオワ州の田舎は、トウモロコシ畑と草原がどこまでも広がる土地だ。そこに生きる主人公たち。屈折した家庭、鯨のように太った母親、自殺した父親、知恵遅れの少年。社会から隔絶された彼らに残された道は、地平線に向かって歩いて行くか、それとも地平線を見ながら生きるかしかない。
ジョニー・デップの若者はアメリカ映画でよく描かれる放浪する青年ではなく、町から出て行かない。彼に代表されるように、この“大草原の小さな家”は、心の中に不安と孤独を抱えた彼らのシェルターなのである。最後には当然ここから出ていくことになるのだが、本作は一応はまとまりを見せていた“小宇宙”から外部へと踏み出す主人公たちを描くビルドゥングスロマンなのだ。
ただ、監督がヨーロッパ人のためか、多くは微妙な隠喩やメタファーが多用されている。その意味では、これ見よがしに説明的シークエンスを挿入して観る側をシラけさせてくれる凡百のドラマよりはポイントが高いだろう。ベルイマン映画でおなじみのスヴェン・ニクヴィストのカメラも落ち着いた雰囲気を醸し出している。
しかし、どこか違和感があり作品に没入できない。デップをはじめジュリエット・ルイスやレオナルド・ディカプリオらは好演(特にディカプリオの演技には圧倒される)。でも、当時のハリウッドの若手人気スターが顔を並べると、それだけでこの作品のカラーがある程度決定されてしまう。ヨーロッパの作家による深々としたタッチも帳消しにされるのではないか。舞台となる小さな町は「マイライフ・・・・」における村と同じような役割を果たすはずだが、陰影のないアメリカ中西部の風景がその寓話性を薄めてしまう。
銀色の屋根を持つトレーラー群や果てしない草原はアメリカでなければ撮れないのはわかるが、別にそれがなくても北欧の厳しい自然や清涼な空気があれば、これよりもっと格調の高い映像に仕上がったのではないかと思う。配役も有名スターは不要。その方が余計な先入観なしに素直に感動できたはずだ。
舞台になるアイオワ州の田舎は、トウモロコシ畑と草原がどこまでも広がる土地だ。そこに生きる主人公たち。屈折した家庭、鯨のように太った母親、自殺した父親、知恵遅れの少年。社会から隔絶された彼らに残された道は、地平線に向かって歩いて行くか、それとも地平線を見ながら生きるかしかない。
ジョニー・デップの若者はアメリカ映画でよく描かれる放浪する青年ではなく、町から出て行かない。彼に代表されるように、この“大草原の小さな家”は、心の中に不安と孤独を抱えた彼らのシェルターなのである。最後には当然ここから出ていくことになるのだが、本作は一応はまとまりを見せていた“小宇宙”から外部へと踏み出す主人公たちを描くビルドゥングスロマンなのだ。
ただ、監督がヨーロッパ人のためか、多くは微妙な隠喩やメタファーが多用されている。その意味では、これ見よがしに説明的シークエンスを挿入して観る側をシラけさせてくれる凡百のドラマよりはポイントが高いだろう。ベルイマン映画でおなじみのスヴェン・ニクヴィストのカメラも落ち着いた雰囲気を醸し出している。
しかし、どこか違和感があり作品に没入できない。デップをはじめジュリエット・ルイスやレオナルド・ディカプリオらは好演(特にディカプリオの演技には圧倒される)。でも、当時のハリウッドの若手人気スターが顔を並べると、それだけでこの作品のカラーがある程度決定されてしまう。ヨーロッパの作家による深々としたタッチも帳消しにされるのではないか。舞台となる小さな町は「マイライフ・・・・」における村と同じような役割を果たすはずだが、陰影のないアメリカ中西部の風景がその寓話性を薄めてしまう。
銀色の屋根を持つトレーラー群や果てしない草原はアメリカでなければ撮れないのはわかるが、別にそれがなくても北欧の厳しい自然や清涼な空気があれば、これよりもっと格調の高い映像に仕上がったのではないかと思う。配役も有名スターは不要。その方が余計な先入観なしに素直に感動できたはずだ。