くだらん。今年観た日本映画の中では、最低のシャシンだ。とにかく、何も描けていない。中身がまるで無い。見事なほどカラッポな映画である。こんな愚作を平気で垂れ流した製作側は、いったい何を考えているのだろうか。恥ずかしくないのだろうか。
劇中で利休は“私がぬかずくのは、美しいものだけでございます”と言う。ではその“美しいもの”は映画の中でどこにあったのかというと、これが全然見当たらない。利休を支えた妻・宗恩の愛情がそうなのかというと、これがまるで平板で深みが無い。娘・おさんへの慈しみがそうかと思ったら、これも手抜きでスカスカの描写しか提示出来ていない。師匠の武野紹鴎や、弟子の山上宗二との濃密な関係性が“美しい”のかというと、まったくそうではない。
そして肝心の茶道の所作および茶道具、花器等の調度品などの映し方がとても“美しい”とは言えない。撮影に当たっては高価で貴重な小道具を大量動員しているというが、どれもこれも全く美しくない。精緻な茶器はプラスティックのお椀みたいだし、贅を尽くしたはずの屏風絵はお手軽テレビドラマに使われる書き割りのようだ。
監督は田中光敏とかいうテレビ屋あがりだが、映像も話の中身もいかにもそれらしい薄っぺらで密度の低いものだ。利休と秀吉との確執は何も示されていない。石田三成をはじめとする他の武将達の人間模様は、全然描けていない。利休が切腹に追いやられるプロセスや背景も、完全にスッ飛ばされている。
その代わりに何があるのかというと、後半に唐突に挿入される、若い頃の利休と朝鮮から連れられてきた女との恋愛沙汰だったりする(呆)。これがまあ、安手の韓流ドラマのように気勢の上がらない三流芝居で、しかも不必要に長い。どうやら作者は、このエピソードが後の利休が会得する美意識に影響を与えたと言いたいらしいが、映画ではそんな筋道は全然提示出来ていない。そもそも、ありふれた朝鮮製の小瓶を手渡されたぐらいで芸術的インスピレーションが湧くわけがないだろう(爆)。
主演の市川海老蔵は熱演だが、作劇がガタガタなので空回りしている感が強い。宗恩に扮する中谷美紀はわざとらしいメロドラマ演技に終始し、信長の伊勢谷友介や秀吉の大森南朋はコスプレ御座敷芸のレベル。三成の福士誠治や細川忠興の袴田吉彦に至っては、まるで学芸会だ。海老蔵と紹鴎役の市川團十郎との最初で最後の親子共演も何やら虚しい。興行的には大コケらしいが、それも十分納得出来る有様だ。
こんな惨状を見ていると、かつての熊井啓監督「千利休 本覺坊遺文」や勅使河原宏監督「利休」は、なんと良い映画だったのだろうかとしみじみ思ったりする(口直しに再見したくなった ^^;)。