(英題:HIT THE ROAD)当局側に目を付けられて、新作を撮ることも難しくなったイランの名匠ジャファル・パナヒ。その長男パナー・パナヒの長編監督デビュー作だ。父親の作品とは異なり本編は本国では公開禁止にはならず、国外の映画祭にも出品されている。ただし、その分切れ味が鈍くなり主題の扱い方も隔靴掻痒の感があるのは確かで、改めて国家権力と表現者との相克の深刻さを思わずにはいられない。
イランの荒野をテヘランからトルコ国境近くを目指して車で旅する4人家族。ハンドルを握っているのは成人したばかりの長男で、助手席の母親はカーステレオから聞こえてくる古い流行歌を口ずさんでいる。後部座席には脚にギプスをした父親がいて、久々の家族そろってのドライブで興奮してはしゃいでいる小学生の次男をたしなめている。やがて車は目的地近くの村に到着するが、そこには仮面をつけた男が案内役が長男を“旅人”として村に迎え入れる。
この旅の目的は最後まで具体的には語られない。父親は4カ月もの間、なぜかギプスを装着したままだという。途中で車に乗せる転倒した自転車レースの選手の扱いは思わせぶりだが、何か重要なことが語られるわけでもない。車内には余命わずかなペットの犬もいるのだが、大きなモチーフになってはいない。つまりは本作はそれらしいネタの前フリはあるが、回収されることは無いのだ。
おそらくこの旅は長男の亡命を目的としていて、国境付近には思いを同じくする人々が集まっているのだろうと思わせる。テヘランの実家が抵当に入っていることや、次男が隠し持ってきた携帯電話が途中で捨てられたことも、それを暗示する。しかし、主題を表に出すことを躊躇している以上、インパクトには欠けるのだ。そのあたりを家族愛の描写でカバーしようとしても、虚しさだけが残る。長男の境遇を詳説しようとすると、それは即当局批判へ繋がる恐れがあり、製作自体が取りやめられる可能性があるのだろう。
パナー・パナヒの演出はソツが無いとは言えるが、父親ジャファルと比べればやはり見劣りがする。ただし、モハマド・ハッサン・マージュニにパンテア・パナヒハ、ラヤン・サルラク、アミン・シミアルというキャストは申し分ない。イランの大地をとらえた映像は魅力がある。
イランの荒野をテヘランからトルコ国境近くを目指して車で旅する4人家族。ハンドルを握っているのは成人したばかりの長男で、助手席の母親はカーステレオから聞こえてくる古い流行歌を口ずさんでいる。後部座席には脚にギプスをした父親がいて、久々の家族そろってのドライブで興奮してはしゃいでいる小学生の次男をたしなめている。やがて車は目的地近くの村に到着するが、そこには仮面をつけた男が案内役が長男を“旅人”として村に迎え入れる。
この旅の目的は最後まで具体的には語られない。父親は4カ月もの間、なぜかギプスを装着したままだという。途中で車に乗せる転倒した自転車レースの選手の扱いは思わせぶりだが、何か重要なことが語られるわけでもない。車内には余命わずかなペットの犬もいるのだが、大きなモチーフになってはいない。つまりは本作はそれらしいネタの前フリはあるが、回収されることは無いのだ。
おそらくこの旅は長男の亡命を目的としていて、国境付近には思いを同じくする人々が集まっているのだろうと思わせる。テヘランの実家が抵当に入っていることや、次男が隠し持ってきた携帯電話が途中で捨てられたことも、それを暗示する。しかし、主題を表に出すことを躊躇している以上、インパクトには欠けるのだ。そのあたりを家族愛の描写でカバーしようとしても、虚しさだけが残る。長男の境遇を詳説しようとすると、それは即当局批判へ繋がる恐れがあり、製作自体が取りやめられる可能性があるのだろう。
パナー・パナヒの演出はソツが無いとは言えるが、父親ジャファルと比べればやはり見劣りがする。ただし、モハマド・ハッサン・マージュニにパンテア・パナヒハ、ラヤン・サルラク、アミン・シミアルというキャストは申し分ない。イランの大地をとらえた映像は魅力がある。