2019年作品。観ていて戸惑うしかない映画だ。言いたいことは大体分かる。しかし、それ自体は観ている側にとっては大したことではなく、語り口も手慣れているとは言い難い。そもそも、斯様なネタをこのように扱うシャシンが、どうして作られたのか理解できない。製作サイドでは本作に如何なる勝算を見込んだのだろうか。邦画界には不思議なことが横行しているようだ。
二十歳になる宮川澪は、両親を早くに亡くして祖母と一緒に長野県の野尻湖畔の民宿を切り盛りしていたが、祖母が入院してしまい民宿の閉鎖が決まる。父の親友だった三沢京介を頼って上京した澪は、彼が経営する銭湯を手伝うようになる。しかし、東京での生活にも慣れきてた彼女に突きつけられたのは、銭湯が区画整理のため閉店しなければならないという、非情な現実だった。
コミュニケーションが苦手な主人公が、それまで何とか暮らしていた場所から見ず知らずの土地に移らざるを得なくなり、藻掻きつつも周囲と折り合いを付けるまでを描いたドラマだ。正直こういうネタは珍しくはなく、あとは描き方次第で作品のクォリティが決まるのだが、本作は話にならない。そもそもヒロインの“成長度”はさほどアップせずに終わってしまうのだ。
銭湯を切り回すことや、その常連客および周辺の者たちとの付き合い方は覚えるものの、主人公の世界はそこから広がらない。京介は銭湯が店じまいすることを数年前から知っていながら、何の準備もしないままタイムリミットを迎えて狼狽えるばかり。その他の連中も、再開発を機に新天地を求めるラーメン屋店主を除けば、皆諦観に浸るのみだ。
つまりは、作者は主人公の生き方よりも、失われていく東京の下町情緒(?)に対する感傷を切々と綴りたいのだろう。ところが、私のようにノスタルジーなどさほど覚えない観客もいるわけで、昨今の北九州市の旦過市場の火事に代表されるように、古い商店街を放置したままでは防災上問題が出てくる。このような地域はとっとと再開発すべきだ。
中川龍太郎の演出はテンポが良いとは言い難く、さらに固定カメラを引いたままの長回しという、昔の映画青年が喜んで使いそうな手法の多用には盛り下がるばかり。主演の松本穂香をはじめ、渡辺大知や徳永えり、吉村界人、忍成修吾、光石研、そして樫山文枝など顔ぶれは多彩ながら印象は薄い。だいたい、カメラを引いてばかりでは表情もロクに読み取れない。ただし、冒頭と終盤に映し出される野尻湖畔の風景だけはすこぶる美しく、そこは鑑賞する価値はあるだろう。