(原題:L'innocente )75年作品。名匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の遺作だが、その前の「家族の肖像」(74年)及び前々作の「ルードウィヒ 神々の黄昏」(72年)に比べれば、かなり平易で通俗的な作りである。だから物足りないと感じる映画ファンも少なくないようだが、却って分かりやすさが増して万人にアピールできる出来になっており、これはこれで大いに評価したい。
20世紀初頭のローマ。トゥリオ・エルミル伯爵はジュリアーナと結婚して数年経つが、すでに倦怠期に入っていて彼女を恋愛対象として見ていない。今は元公爵夫人で未亡人のテレーザ・ラッフォに夢中。トゥリオは妻を家に置いてテレーザと2人でフィレンツェに不倫旅行に出かけるが、留守中にトゥリオの弟フェデリコが家に連れてきた友人で作家のフィリッポに、ジュリアーナは惹かれてしまう。それから数か月後、ジュリアーナの妊娠が発覚。これは自分の子ではなくフィリッポとの間に出来た子だと思い込んだトゥリオは、捨て鉢な行動に出る。イタリアの人気作家ガブリエーレ・ダヌンツィオの「罪なき者」の映画化だ。
トゥリオの性格と振る舞いは、タイトルの“イノセント”とは正反対の自分勝手でバチ当たりなものだ。ところが主人公にとっての“イノセント”とは、自身の欲望に愚直なほどに従うことらしい。だから、嫁さんを放置してヨソの女と遠出することも平気だし、ジュリアーナのお腹の中の子が別の男との間に出来たと疑うことも、彼にとっては“イノセント”なことなのだ。
この倒錯した価値観を全面展開してスベクタクル級のメロドラマに仕上げてしまうあたり、やはりヴィスコンティ御大はただ者ではない。しかも、トゥリオの無軌道ぶりに当時の貴族階級の没落ぶりを投影させるという巧妙さも見せる。主演のジャンカルロ・ジャンニーニは、自ら“イノセント”であることを決意した挙句に、周囲からの“イノセント”なまでの反感を買ってしまう屈折した主人公像を上手く表現している。
ジュリアーナに扮するラウラ・アントネッリ、テレーザ役のジェニファー・オニール、共に好演。マッシモ・ジロッティやディディエ・オードパン、マルク・ポレルといった脇のキャストも手堅い。贅を尽くしたセットを美しく捉えたパスカリーノ・デ・サンティスのカメラ、フランコ・マンニーノの音楽も言うことなしである。
20世紀初頭のローマ。トゥリオ・エルミル伯爵はジュリアーナと結婚して数年経つが、すでに倦怠期に入っていて彼女を恋愛対象として見ていない。今は元公爵夫人で未亡人のテレーザ・ラッフォに夢中。トゥリオは妻を家に置いてテレーザと2人でフィレンツェに不倫旅行に出かけるが、留守中にトゥリオの弟フェデリコが家に連れてきた友人で作家のフィリッポに、ジュリアーナは惹かれてしまう。それから数か月後、ジュリアーナの妊娠が発覚。これは自分の子ではなくフィリッポとの間に出来た子だと思い込んだトゥリオは、捨て鉢な行動に出る。イタリアの人気作家ガブリエーレ・ダヌンツィオの「罪なき者」の映画化だ。
トゥリオの性格と振る舞いは、タイトルの“イノセント”とは正反対の自分勝手でバチ当たりなものだ。ところが主人公にとっての“イノセント”とは、自身の欲望に愚直なほどに従うことらしい。だから、嫁さんを放置してヨソの女と遠出することも平気だし、ジュリアーナのお腹の中の子が別の男との間に出来たと疑うことも、彼にとっては“イノセント”なことなのだ。
この倒錯した価値観を全面展開してスベクタクル級のメロドラマに仕上げてしまうあたり、やはりヴィスコンティ御大はただ者ではない。しかも、トゥリオの無軌道ぶりに当時の貴族階級の没落ぶりを投影させるという巧妙さも見せる。主演のジャンカルロ・ジャンニーニは、自ら“イノセント”であることを決意した挙句に、周囲からの“イノセント”なまでの反感を買ってしまう屈折した主人公像を上手く表現している。
ジュリアーナに扮するラウラ・アントネッリ、テレーザ役のジェニファー・オニール、共に好演。マッシモ・ジロッティやディディエ・オードパン、マルク・ポレルといった脇のキャストも手堅い。贅を尽くしたセットを美しく捉えたパスカリーノ・デ・サンティスのカメラ、フランコ・マンニーノの音楽も言うことなしである。