(原題:SERRE MOI FORT)これは一筋縄ではいかない映画だ。このトリッキィな作劇を敬遠してしまう観客も少なくないとは思うが、私は楽しめた。映画の中心的主体の選定によっては、あえてロジカルな御膳立てをする必要は無いケースもあり得る。もちろんその際は用意周到な仕掛けが不可欠なのだが、本作は上手くいっていると思う。
主人公クラリスはテーブル上に裏返しに並べられたポラロイド写真を使って“ひとり神経衰弱”みたいなことをするのだが、絵柄が揃わずに最後には写真を全て放り投げてしまう。そして荷物を車に詰め込み、家を出て行くのだ。残された夫のマルクと2人の子供は、これから彼女がいない日々を送ることになる。
娘のリュシーはピアノを習っており、クラリスが運転する車のカーステレオからはリュシーが弾くピアノを録音したテープの音が流れていた。だが、やっぱり子供たちのことが気になるクラリスは、それからも時折元の家の前を通り彼らの姿を目で追うのだった。しかし、ここで雪山での遭難事故という全く関係が見出せないシークエンスが唐突に挿入され、映画は脈絡の無い展開に突入する。
本編のほとんどがクラリスの主観(および心情)に基づいて進む。そのような設定を採用すると、必ずしも筋書きを合理的に処置する必然性は存在しない。だが、そこには確固としたメインプロットが必要で、それが無ければドラマは空中分解する。本作の場合そのプロットは最初は判然としないが、姿を現す後半になると俄然興趣が増す。それを具体的に書くとネタバレになるので控えるが、とにかく人間が生きていく上で時には“もうひとつの現実”を自己の中に創造しなければならない場合があるという、ある意味真実を提示しており、この作者のスタンスには説得力がある。
フランスの俳優マチュー・アマルリックが監督・脚本を手がけた長編第4作で、第74回カンヌ国際映画祭の“カンヌ・プレミア部門”に選出された意欲作だ。97分という短めの尺は最適だし、クラリスを演じるヴィッキー・クリープスの圧倒的なパフォーマンスもあり、鑑賞後の印象は良好だ。アリエ・ワルトアルテやアンヌ=ソフィ・ボーエン=シャテ、サシャ・アルディリ、ジュリエット・バンブニストといった他のキャストは馴染みが無いがいずれも良い仕事をしている。クリストフ・ボーカルヌのカメラによるクールな画面造型も忘れがたい。
主人公クラリスはテーブル上に裏返しに並べられたポラロイド写真を使って“ひとり神経衰弱”みたいなことをするのだが、絵柄が揃わずに最後には写真を全て放り投げてしまう。そして荷物を車に詰め込み、家を出て行くのだ。残された夫のマルクと2人の子供は、これから彼女がいない日々を送ることになる。
娘のリュシーはピアノを習っており、クラリスが運転する車のカーステレオからはリュシーが弾くピアノを録音したテープの音が流れていた。だが、やっぱり子供たちのことが気になるクラリスは、それからも時折元の家の前を通り彼らの姿を目で追うのだった。しかし、ここで雪山での遭難事故という全く関係が見出せないシークエンスが唐突に挿入され、映画は脈絡の無い展開に突入する。
本編のほとんどがクラリスの主観(および心情)に基づいて進む。そのような設定を採用すると、必ずしも筋書きを合理的に処置する必然性は存在しない。だが、そこには確固としたメインプロットが必要で、それが無ければドラマは空中分解する。本作の場合そのプロットは最初は判然としないが、姿を現す後半になると俄然興趣が増す。それを具体的に書くとネタバレになるので控えるが、とにかく人間が生きていく上で時には“もうひとつの現実”を自己の中に創造しなければならない場合があるという、ある意味真実を提示しており、この作者のスタンスには説得力がある。
フランスの俳優マチュー・アマルリックが監督・脚本を手がけた長編第4作で、第74回カンヌ国際映画祭の“カンヌ・プレミア部門”に選出された意欲作だ。97分という短めの尺は最適だし、クラリスを演じるヴィッキー・クリープスの圧倒的なパフォーマンスもあり、鑑賞後の印象は良好だ。アリエ・ワルトアルテやアンヌ=ソフィ・ボーエン=シャテ、サシャ・アルディリ、ジュリエット・バンブニストといった他のキャストは馴染みが無いがいずれも良い仕事をしている。クリストフ・ボーカルヌのカメラによるクールな画面造型も忘れがたい。