2002年作品。後に「隠し剣 鬼の爪」(2004年)「武士の一分」(2006年)へと続く、山田洋次監督による時代劇シリーズの第一作にして最良作だ。
山田監督は時代ものを手掛けてもテーマの扱い方は少しも変わらない。本作では藤沢周平の短編「たそがれ清兵衛」「竹光始末」「祝い人助六」の三つを巧みにミックスした脚本を得て、派手な斬り合いも用意された娯楽作に挑んでいるが、映画の焦点は組織や時代の趨勢に押し潰されそうになりながらも、ささやかな幸せを守ろうとする宮仕え侍の姿だ。
大仰な大義名分や正論ぶったイデオロギーよりも小市民の生活の方が大事である・・・・といった山田監督の姿勢はそれ以前から一貫している。しかし、その反権力的なスタンスは“庶民への共感”という自然な思いを、時として大上段に振りかぶった“糾弾シュプレヒコール”へと容易にスリ替えてしまうのだ。
「男はつらいよ」以外の作品の多くはその構図にとらわれてしまい、メッセージ性ばかりが前面に出ていて映画としてはあまり評価できなかったのである。ところが、今回はそのへんを実にうまくクリアしている。これはひとえに映画の焦点を主人公の視線から離さなかったためである。
主人公の清兵衛にとって御家騒動も幕末の動乱も切迫した事態であることには変わりないだろう。しかし、彼は決して弱小藩の使用人である立場を放棄することはない。自ら出来ることは全てやり通し、あとは粛々と運命に従うのみである。その“身の丈にあった”処し方を等身大に描ききることにより、もっとも美しい“市民の在り方”を無理なく観る者の心に刻みつけることに成功している。またそれが、理不尽に市民を翻弄する“時代”の真実をも活写しているのだ。
主演の真田広之は彼のキャリアの代表格となる仕事ぶり。ヒロイン役の宮沢りえの端麗さも光るが、ここに出てくる市井の人々の佇まいがすべて美しい。そして前衛舞踏家の田中泯が演じる剣豪の凄さは言うまでもない(当時、よくこういう逸材を見つけてきたものだと驚いたことを覚えている)。「息子」以来の山田洋次の秀作であり、彼が時代劇の良き作り手であることをも証明している。
山田監督は時代ものを手掛けてもテーマの扱い方は少しも変わらない。本作では藤沢周平の短編「たそがれ清兵衛」「竹光始末」「祝い人助六」の三つを巧みにミックスした脚本を得て、派手な斬り合いも用意された娯楽作に挑んでいるが、映画の焦点は組織や時代の趨勢に押し潰されそうになりながらも、ささやかな幸せを守ろうとする宮仕え侍の姿だ。
大仰な大義名分や正論ぶったイデオロギーよりも小市民の生活の方が大事である・・・・といった山田監督の姿勢はそれ以前から一貫している。しかし、その反権力的なスタンスは“庶民への共感”という自然な思いを、時として大上段に振りかぶった“糾弾シュプレヒコール”へと容易にスリ替えてしまうのだ。
「男はつらいよ」以外の作品の多くはその構図にとらわれてしまい、メッセージ性ばかりが前面に出ていて映画としてはあまり評価できなかったのである。ところが、今回はそのへんを実にうまくクリアしている。これはひとえに映画の焦点を主人公の視線から離さなかったためである。
主人公の清兵衛にとって御家騒動も幕末の動乱も切迫した事態であることには変わりないだろう。しかし、彼は決して弱小藩の使用人である立場を放棄することはない。自ら出来ることは全てやり通し、あとは粛々と運命に従うのみである。その“身の丈にあった”処し方を等身大に描ききることにより、もっとも美しい“市民の在り方”を無理なく観る者の心に刻みつけることに成功している。またそれが、理不尽に市民を翻弄する“時代”の真実をも活写しているのだ。
主演の真田広之は彼のキャリアの代表格となる仕事ぶり。ヒロイン役の宮沢りえの端麗さも光るが、ここに出てくる市井の人々の佇まいがすべて美しい。そして前衛舞踏家の田中泯が演じる剣豪の凄さは言うまでもない(当時、よくこういう逸材を見つけてきたものだと驚いたことを覚えている)。「息子」以来の山田洋次の秀作であり、彼が時代劇の良き作り手であることをも証明している。