予定通りだと、前年から延期された東京オリンピックが2021年7月23日から開催される。続くパラリンピックは8月24日からだ。さて、この大会の開催の是非について、いまだに世論は分かれている。早い話、さらなる延期を希望する層も含めて、2021年に開催すべきではないとする意見が、各種アンケート結果では全体の過半数を占めている。
個人的には、開催すべきではないと考える。コロナ禍が収束する見通しがつかず、さらに夏期は熱中症などに医療現場は取り組む必要があるのに、この上オリンピック関係者の対応まで要求されると、リソースが枯渇するのは目に見えている。さらには新たな変異株が流入してくる可能性もあり、国民の健康と安全を考えると中止以外の選択肢はあり得ないように見える。
ただ、そんな中にあっても開催を望む者たちは少なからず存在する。その理由としては“経済的効果が見込めるから”という意見が最も多いようだが、経済的側面は要するに“金目の話”なので、ある程度は予測できる。問題なのは“オリンピックで日本国民が元気をもらえる”とか“困難に立ち向かう精神的土台が形成される”とか、はたまた“グローバル社会融和のシンボルになる”とかいった、理想論や心情論により開催を希望している向きである。その割合についてはハッキリとした数字は分からないが、経済的効果を想定している層に次ぐパーセンテージを占めていると思われる。
この“心情的開催希望派”とも言うべき者たちの意見が際立って特徴的なのは、何ら具体的な根拠が無いことだ。開催反対派は主にコロナ禍という“現実”を見据えているのであり、経済的効果を期待して開催に賛成している層の興味の対象はリアルな“金目の話”である。対して“心情的開催希望派”には論理も何もない。単なるセンチメンタリズムや根性論みたいな抽象的なものに突き動かされているに過ぎない。
スポーツ、特にアマチュアのそれにはあまり関心の無い私からすれば、単なる大規模体育大会にすぎないオリンピックに“元気をもらえる”だの“精神的土台”だのと、何をそんな御大層なものを求めているのだろうかと思ってしまう。この思考パターンは、理屈が通用せず、何でも根性で乗り切ろうとする“体育会系”そのものではないか。
そもそもIOCがオリンピズムを完全無視したような“金儲けの組織”であることが判明した現在、オリンピックを根性でやりきれば平和と連帯と元気と精神的土台が形成されるといった“体育会系”みたいなテーゼを信じること自体、ナンセンスであると思う。
個人的には、開催すべきではないと考える。コロナ禍が収束する見通しがつかず、さらに夏期は熱中症などに医療現場は取り組む必要があるのに、この上オリンピック関係者の対応まで要求されると、リソースが枯渇するのは目に見えている。さらには新たな変異株が流入してくる可能性もあり、国民の健康と安全を考えると中止以外の選択肢はあり得ないように見える。
ただ、そんな中にあっても開催を望む者たちは少なからず存在する。その理由としては“経済的効果が見込めるから”という意見が最も多いようだが、経済的側面は要するに“金目の話”なので、ある程度は予測できる。問題なのは“オリンピックで日本国民が元気をもらえる”とか“困難に立ち向かう精神的土台が形成される”とか、はたまた“グローバル社会融和のシンボルになる”とかいった、理想論や心情論により開催を希望している向きである。その割合についてはハッキリとした数字は分からないが、経済的効果を想定している層に次ぐパーセンテージを占めていると思われる。
この“心情的開催希望派”とも言うべき者たちの意見が際立って特徴的なのは、何ら具体的な根拠が無いことだ。開催反対派は主にコロナ禍という“現実”を見据えているのであり、経済的効果を期待して開催に賛成している層の興味の対象はリアルな“金目の話”である。対して“心情的開催希望派”には論理も何もない。単なるセンチメンタリズムや根性論みたいな抽象的なものに突き動かされているに過ぎない。
スポーツ、特にアマチュアのそれにはあまり関心の無い私からすれば、単なる大規模体育大会にすぎないオリンピックに“元気をもらえる”だの“精神的土台”だのと、何をそんな御大層なものを求めているのだろうかと思ってしまう。この思考パターンは、理屈が通用せず、何でも根性で乗り切ろうとする“体育会系”そのものではないか。
そもそもIOCがオリンピズムを完全無視したような“金儲けの組織”であることが判明した現在、オリンピックを根性でやりきれば平和と連帯と元気と精神的土台が形成されるといった“体育会系”みたいなテーゼを信じること自体、ナンセンスであると思う。



