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Channel: 元・副会長のCinema Days
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「ヤクザと家族 The Family」

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 前半は、そこそこ楽しめる。だが後半は完全に腰砕け。全体として、要領を得ない映画になってしまった。有名原作に頼らないオリジナル脚本である点は認めるが、現時点でヤクザものを撮る必然性を、もっと煮詰める必要がある。舞台設定や時代背景にも、かなり問題がある。

 99年、静岡県の地方都市。覚醒剤がらみのトラブルで父親を失った山本賢治は、その日暮らしの荒んだ生活を送っていた。そんなある時、彼は地元の暴力団である柴咲組の組長、柴咲博の命を救う。これが切っ掛けになり、賢治は柴咲組に入る。2005年、無鉄砲だが侠気のある賢治は組の顔役にまで上り詰めていた。また、由香という恋人も出来た。しかし、対立する組織との抗争が再発した際、幹部の身代わりになって服役することになる。



 ここまでが前半で、後半は14年後の2019年、賢治が出所するところから始まる。組に復帰したものの、組員の多くは去り、残っているのは老幹部だけ。おまけに組長の柴咲は病気で余命幾ばくもない。賢治は昔の仲間のツテを頼って、由香を探すことにする。

 前半部は昔のヤクザ映画(70年代の実録路線)にも取り上げられたようなネタと筋書きで、新しさは希薄だが、いわばこのジャンルの定番という感じで“安心”して観ていられた。しかし、後半部はいただけない。そこで描かれるのは、法律や条令で締め上げられて思うような活動が出来なくなったヤクザ組織や、代わりに台頭してきた半グレ集団、そしてSNSの普及による弊害で当事者が苦しめられるという、いわば誰でも考えつくようなモチーフばかりなのだ。しかも、その扱いは通り一遍で何の捻りも無い。

 さらによく考えてみると、映画の序盤の時制である99年には、いわゆる暴対法はすでに存在していた(92年施行)。この時点ですでに往年のヤクザ映画とは勝手が違うはずなのに、大昔の“ヤクザは任侠道で男を磨き”などというスローガンを性懲りも無く披露している。舞台が一地方都市の縄張り争いだというのも、いかにも大時代的だ。

 要するに、後半部での主人公および柴咲組の逆境は、ヤクザである自分たちが呼び込んだにも関わらず、本作はそれを“社会のせいだ”と言い募っているに過ぎない。どうしてもそれを主張したいのならば、賢治がヤクザにならざるを得なかった社会的状況の方をテンション上げて描くべきではなかったか。

 藤井道人の演出は個々の描写には力はあるものの、全体として作劇がまとめきれていない。さらに、前半と後半とではスクリーンサイズが違うのだが、効果が上がっているとは思えない。主演の綾野剛をはじめ、舘ひろしに尾野真千子、北村有起哉、市原隼人、磯村勇斗、寺島しのぶら各キャストは熱演だが、映画の内容が斯くの如しなので評価は出来ない。

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