(原題:BOZE CIALO)示唆に富んだ内容で、キャストの力演も光る。生きる上で“真実”とされるものは何か。それは絶対に揺るがない存在価値を持ち合わせているのか。多様性が介入する余地は無いのか。さらに本作では宗教がモチーフとして採用されることにより、神と人間との関係性にも言及する。第92回米アカデミー賞の国際長編映画賞にノミネートされたポーランド映画だ。
少年院で服役していたダニエルは、院内でおこなわれる神父の説教に感動し、いつか宗教家になることを夢見ていた。仮出所した彼は遠方の田舎町の製材所で働くことになっていたが、ふとした偶然で新任の司祭に成り済ますことに成功。彼はトマシュ神父と名乗り、うろ覚えの聖書の知識を自分なりにアレンジして型破りの説教を展開する。そんな彼に町の人々は困惑するが、やがて全力投球のトマシュのパフォーマンスに共感する者が増えていく。
一方、この土地では数年前に7人もの犠牲者を出した交通事故が発生しており、事故の真相が曖昧なまま、町民たちは責任を一人の運転手になすりつけようとしていた。トマシュはこの状態を何とかすべく、関係者からの聞き込みを開始する。だがある日、彼の“正体”を知る少年院仲間がこの地にやって来ることになり、トマシュは窮地に追い込まれる。
カトリックでは、ダニエルのような前科者は神父にはなれないらしい。しかし、事故にまつわる町民の疑心暗鬼を放置していたのは前任までの教会関係者であり、真剣に解決に向けて動いたのはこの若いニセ神父だった。事故の詳細を隠蔽しようとするのは、一見信心深い町民たちの欺瞞性だ。信心と不信心とを都合良く使い分けようという、人間の弱さを容赦なく暴いていくドラマ運びには説得力がある。
そもそも、前科者が宗教的に救われないというのは、神を無視するものであろう。仏教の浄土真宗では悪人正機説という教義がある。もちろんそこに謳われている善悪とは法的・道徳的な問題をさしているのではないが、罪を犯してそれを償った者が救われないということではない。
この点、本作で描かれるカトリックの偏狭性には閉口してしまう。人間誰しも多面性を持ち合わせており、それを一面的な方向から決めつけてしまうのは、反宗教的でしかない。終盤の、ダニエルの風雲急を告げる行動、そして暴力的とも言える幕切れは圧倒的で、監督ヤン・コマサの力量が遺憾なく発揮されている。
主演のバルトシュ・ビィエレニアをはじめ、エリーザ・リチェムブルにアレクサンドラ・コニェチュナ、トマシュ・ジェンテクなど、皆馴染みは無いが良い演技をしている。そしてピョートル・ソボチンスキ・Jr.のカメラによるポーランドの田園地帯の風景はとても美しい。