(原題:Emperor )終盤を除けば、退屈な映画である。GHQの幹部が戦争責任の行方や日本人の国民性の理解に関して壁にぶちあたり、ああでもないこうでもないと勝手に悩んでいるパートが冒頭から延々と続く。隔靴掻痒なその展開は、れっきとしたアメリカ映画でありながら、製作陣には日本のスタッフが関与しているだめだと思われる。
もちろん、異なるスタンスのプロデューサーを複数配して事に当たらせるというのは、双方の良いところが前面に出ることもある。しかし、どちらも相手に遠慮して結局は微温的な展開に終始することもあろう。本作は、間違いなく後者の方だ。
1945年8月、占領軍の司令官ダグラス・マッカーサーは、部下で知日派のフェラーズ准将に“戦争責任者の特定と、天皇の戦争責任に関する判定”という特命を与える。彼は関係者から話を聞くものの、いまひとつ真相を掴みきれず、捜査は難航する。しかし、マッカーサーが天皇に謁見する場をセッティングすることに成功。これが日本の戦後史を決定付ける出来事になる。
だいたい、ヨソの国の事情を10日かそこらで調べられるはずも無く、しかも“本音と建前”をケースバイケースで使い分ける日本人に対し、西欧的な合理的価値観でアプローチを試みようとすること自体、暴挙と言わざるを得ない。当然、フェラーズは異質な文化を前にして右往左往するしかなく、それをそのまま映画で追っても面白いものが出来る可能性は低い。
しかも、フェラーズにはかつて日本人の恋人がおり、彼女の安否を確認するだの何だのといったアクビが出るようなサブ・プロットが無遠慮に挿入されているので、観ていて実にまだるっこしい。ハッキリ言って、これは昔の「将軍」みたいな“アメリカ人男性と日本女性との恋愛沙汰”といったステレオタイプのモチーフでしかなく、脱力するばかりだ。
ところが、本作のハイライトである謁見シーンは素晴らしく盛り上がる。この二人の駆け引きを(史実に基づいて)紹介するだけでも、この映画の存在価値はあるだろう。いわば、それまでの凡庸極まりない作劇は、このシークエンスの“伏線”だとも言える。
ピーター・ウェーバーの演出は可も無く不可も無いレベルだが、マッカーサー役のトミー・リー・ジョーンズとフェラーズに扮したマシュー・フォックスはなかなかの力演で、作品を安っぽくしていない。西田敏行や羽田昌義、夏八木勲、中村雅俊、伊武雅刀といった日本人キャストの扱いも悪くない。そして昭和天皇を演じる片岡孝太郎は、そのカリスマ性の表現と共に大きな存在感を発揮している(まさに儲け役だ)。
本来ならば、こういうネタは日本映画の側から提案してしかるべきだと思うが、まんまとハリウッドに持って行かれたのは残念。チャラチャラした企画でお茶を濁すよりも、こういう硬派のネタで勝負しようという大手映画会社の製作者は、今の日本にはいないようだ。