一見すると、単なる珍作だ。しかしながら、これが大林宣彦監督の遺作であることを分かった上で接すれば、納得してしまう。それどころか、高齢で病身にもかかわらずパワフルに3時間の作品を撮り上げた、監督のその執念には圧倒される。映画はそれ自体“単体”として評価すべきなのは当然だが、映画を取り巻く状況が作品の質を左右することもある。
尾道市にある海辺の映画館“瀬戸内キネマ”は、閉館のイベントとして日本の戦争映画を集めたオールナイト上映が行われていた。客席にいた3人の青年は、いつの間にかスクリーンに映し出されている世界に入り込み、幕末から第二次大戦までの我が国の戦争の歴史を身をもって体験していく。やがて彼らは、原爆投下前夜の広島にタイムスリップし、そこで移動劇団“桜隊”と出会う。この劇団が広島で壊滅することを知っていた3人は、何とかして運命を変えようと奔走する。
大林の仕事ぶりは、前作「花筐 HANAGATAMI」(2017年)を踏襲している。とにかく、自主映画製作時代に戻ったかのようなキッチュな映像ギミックの洪水だ。ただし、表現方法自体はそれほど洗練されていない。すべてが今まで使った方法の焼き直しである。しかも、不必要な繰り返しのシーンが多く、観ているうちに面倒臭くなる。
要点だけまとめて余計なシークエンスを刈り取れば、2時間程度のタイトな作品に仕上がったかもしれない。随所に挿入される中原中也の詩も、あまり合っているとは言い難いし、桜隊を題材にするならば新藤兼人監督の「さくら隊散る」(88年)の方がヴォルテージは高い。だが、これは大林の最後の映画なのだ。彼のキャリアの掉尾を飾る作品に、あまりケチは付けたくない。思う存分、戦争に対する怒りをスクリーンに叩き付ければ良い。
ただし、主役の3人(厚木拓郎、細山田隆人、細田善彦)は全然パッとしない。ヒロイン役の吉田玲も魅力に乏しい。過去に何人もの有望な若手を発掘してきた大林にしては、不満の残るキャスティングである。しかし、その代わりに脇の配役は本当に豪華だ。これまでの大林映画に出演した俳優が(一人ずつ名前を挙げればキリがないほど)、大挙して集結して場を盛り上げている。さらに成海璃子や武田鉄矢、稲垣吾郎といった大林組初登場の面子も含めると、その総数は膨大なものになり、改めてこの監督の人望の高さを思い知った。
尾道市にある海辺の映画館“瀬戸内キネマ”は、閉館のイベントとして日本の戦争映画を集めたオールナイト上映が行われていた。客席にいた3人の青年は、いつの間にかスクリーンに映し出されている世界に入り込み、幕末から第二次大戦までの我が国の戦争の歴史を身をもって体験していく。やがて彼らは、原爆投下前夜の広島にタイムスリップし、そこで移動劇団“桜隊”と出会う。この劇団が広島で壊滅することを知っていた3人は、何とかして運命を変えようと奔走する。
大林の仕事ぶりは、前作「花筐 HANAGATAMI」(2017年)を踏襲している。とにかく、自主映画製作時代に戻ったかのようなキッチュな映像ギミックの洪水だ。ただし、表現方法自体はそれほど洗練されていない。すべてが今まで使った方法の焼き直しである。しかも、不必要な繰り返しのシーンが多く、観ているうちに面倒臭くなる。
要点だけまとめて余計なシークエンスを刈り取れば、2時間程度のタイトな作品に仕上がったかもしれない。随所に挿入される中原中也の詩も、あまり合っているとは言い難いし、桜隊を題材にするならば新藤兼人監督の「さくら隊散る」(88年)の方がヴォルテージは高い。だが、これは大林の最後の映画なのだ。彼のキャリアの掉尾を飾る作品に、あまりケチは付けたくない。思う存分、戦争に対する怒りをスクリーンに叩き付ければ良い。
ただし、主役の3人(厚木拓郎、細山田隆人、細田善彦)は全然パッとしない。ヒロイン役の吉田玲も魅力に乏しい。過去に何人もの有望な若手を発掘してきた大林にしては、不満の残るキャスティングである。しかし、その代わりに脇の配役は本当に豪華だ。これまでの大林映画に出演した俳優が(一人ずつ名前を挙げればキリがないほど)、大挙して集結して場を盛り上げている。さらに成海璃子や武田鉄矢、稲垣吾郎といった大林組初登場の面子も含めると、その総数は膨大なものになり、改めてこの監督の人望の高さを思い知った。