この映画が封切られたのは2020年3月6日だが、私が劇場で観たのは6月上旬である。その間にコロナ禍による緊急事態宣言が発令されて映画館も軒並み休業。5月下旬に宣言が解除され、ようやく映画館も営業を開始したのだが、そうした後に同じく緊急事態宣言というフレーズが飛び交う本作に接すると、そのダメさ加減に脱力するばかりだ。
2011年3月11日に起きた東日本大震災で制御不能となった福島第一原発の暴走を止めるため、原発内に残って事態の収拾に当たった現場作業員たちの奮闘を描くこの映画、原作は門田隆将によるノンフィクションで、言うまでもなく実録物としての体裁を取っている。にもかかわらず現実と異なるモチーフを平然と出してくるのは、何かの悪い冗談としか思えない。具体的には当時の総理大臣を、現場の足を引っ張る“悪役”として描いていることだ。
私は首相だった菅直人を政治家としてはほとんど評価していないが、あの未曾有の災害に対しては別に大きな失態は演じていない。このような“事実の加工”は、観る者の印象を(総理だけが悪いという)一定の方向に誘導するものであり、断じて看過できない。なぜなら、あの事件の原因は当時の政権の不手際なんかではないからだ。
安全対策を無視したまま野放図に原発を増やし続けたそれまでの政府の所業、原子力発電業界の産・官・学の関係者によって構成された特殊なムラ社会的集団の欺瞞性、そんな誤謬が積み重なって危険水域に達し、最後の引き金を引いたのが、くだんの震災だったという話だろう。それをこの映画では終盤の“俺たちは自然を舐めていた”という主人公の一言で胡麻化しているが、まったく話にならない。
事故前には津波の最大値が15メートル以上になることは判明しており、東北電力の女川原発はその基準で対策を立てていたのでほぼ無事だった。対して東電は何もしなかった結果があの惨状だ。映画はそのことにまったく触れておらず、これでよく“映画だから語れる、真実の物語”などという惹句を平気で提示できるものだ。
さて、本作に出てくる緊急事態宣言という用語が、コロナ禍を経験した現時点での我が国においては空しく響く。国家的な非常事態を収拾する責任は、この映画に登場するような現場のスタッフにではなく、政府にある。東日本大震災の際の政府は、不十分ながらやるだけのことはやった。ところがコロナ禍に対する現政府の対応はいったい何だ。
ウイルス蔓延といういわば“天災”が、政府の不手際によって“人災”のレベルに移行してしまっている。ラストに誇らしく表示される“東京オリンピックの聖火リレーは福島から始まる”という一文は、コロナ禍によって大会が(限りなく中止に近い)延期になった現時点で観ると、もはやギャグでしかない。
若松節朗の演出は、まあ予想していた通り大味で凡庸。登場人物たちは終始喚き散らし、彼らの家族などの“人間模様”は泣かせに走る。かつてのパニック映画と変わらず、いったい何十年前の映画を観ているのかと思った。佐藤浩市や渡辺謙をはじめとする豪華なキャスティングも場違いに思える。とにかく、まったく評価できない映画である。