フランスの社会心理学者ル・ボンにより1895年に書かれた文献だが、少しも古びていないどころか、21世紀の現在においてもその論旨は立派に通用する。言い換えれば、近代民主主義が誕生してから長い時間が経過したにも関わらず、我々は何も進歩していないのだろう。
著者によれば、いわゆる“群衆”とは同一の基盤に準拠した集団で、その基盤とは民族とか国民とか、時には宗教とかいったものだ。対個人では論理や道徳は通用するかもしれないが、共通した基盤を持つ人間が集まって“群衆”を形成してしまうと、理屈は無力になる。では“群衆”は何によって動かされるのかというと、過激な感情のみである。そして、その感情を捉えて上手く扇動する者が現れると、一斉にその方向へ突き進む。
アジテーションの方法は実に単純明快で、内容空疎な(なおかつセンセーションな)スローガンの連呼で事足りる。“群衆”がそのスローガンを支持する際は、責任の所在などには考えが及ばないし、どういう結果に行き着くかも脳裏に無い。
このロジックを“実行”して成果を上げた者がヒトラーであり、彼は早くからル・ボンのこの著書を知っていたという。ヒトラーの企みは敗戦によって塵芥に帰すのだが、ドイツ国民という“群衆”は責任を全てナチスに押し付けた。問題の当事者でありながら最終的には責任を放り出す“群衆”の論理は、難民問題に揺れる現代でもしっかりと息づいている。しかも、デイヴィッド・ヴェンド監督「帰ってきたヒトラー」(2015年)でも示される通り、インターネット社会では“群衆”に対するアジテーションの伝播は広範囲かつ高速におこなわれる。
本書は“群衆”の生態については解説されているが、“群衆”の暴走を防ぐ処方箋は明確に提示していない。ただし、そのことが決して瑕疵にはならない。大切なのは“群衆”の何たるかを知った上で、我々個人がどう対峙するか、それを見極めることだと思う。翻訳(桜井成夫による)のせいか、文章は硬くて取っつきにくい面もあるが、一読に値する内容だ。ましてや我が国では、何の具体性も無いシュプレヒコールの連呼によって“群衆”が動き、なおかつ政治の中枢部は責任が存在しないという空虚な状態が20年以上も続いているのである(呆)。