先般の沢尻エリカ容疑者の逮捕により、彼女が重要な役で出演する2020年放映予定のNHK大河ドラマの取扱いが難しくなっている。以前より疑惑があった沢尻をわざわざキャスティングしたNHKの脇の甘さは問題だが、やっぱり無節操に長年薬物を使い続けた本人の責任は逃れられない。残念ながら、彼女が第一線に復帰することは不可能だろう。まさに“後悔先に立たず”である。
さて、この件に関する言説で私が最も違和感を覚えたのが“(沢尻は)見た目の良さもさることながら、才能があった”とか“実力派女優だった(だから惜しい)”とかいうマスコミや識者等の物言いである。
確かに、沢尻のルックスは華やかで見栄えがするが、私が彼女の演技に感心したことは、ただの一度も無い。有り体に言えば、かなりの大根である。もちろん、デビュー時から実力を発揮する天才肌の俳優は限られているし、多くは駆け出しの頃は未熟だ。しかし、努力を重ねて場数を踏めば、誰でも次第に上手くなってくるのだろう。そういう例はいくらでも見ている。また、たとえ現時点で努力が報われていなくても、懸命に頑張っていれば応援したくなる。
だが、沢尻はデビューしてから15年も経ち、出演作も決して少なくない。にも関わらず、演技面で大きな上達は見られないのだ。これは即ち、彼女にはもともと才能が無いか、または努力を怠っているか、あるいはその両方であると断言せざるを得ない。
そんな彼女を“才能があった”とか“実力がある”とか言って持ち上げる向きは、いったいどこを見ているのだろう。彼女と同じ世代には蒼井優や満島ひかり、宮崎あおい、貫地谷しほり、安藤サクラなど、実力派がそろっている。彼女たちと比べて、それでも“沢尻は実力がある”と言い切ってしまう神経が分からない。
思えば、沢尻が井筒和幸監督の「パッチギ!」(2004年)で新人賞を総なめにした時点で、違和感を覚えた。大した演技でもないのに高く評価されたのは、何かの“裏”があるのではと思ったほどだ。ひょっとしたら、若い頃の分不相応な高評価が彼女に道を誤らせたのかもしれない。
さて、今の邦画界において“明らかな大根”あるいは“大根なのに、それを自覚せず精進を怠っている”と思われる役者が散見されるのには愉快ならざる気分になる。まあ、私も時折たとえば“朝ドラ大根三銃士(または四銃士)”みたいな言い方で茶化したりはするが(笑)、本当はそれじゃダメなのだ。人前に出る以上、それにふさわしいパフォーマンスを見せる(または、見せるように努力する)ことは当然である。そのことをスッ飛ばして表面的なルックスやキャラクターだけで持ち上げる風潮は、日本映画にとってマイナス要因にしかならない。
ひるがえってハリウッドでは、たとえルックス面では好き嫌いが分かれるとしても(笑)、演技力も存在感も持ち合わせない俳優がスクリーンに陣取っている事例には、お目にかかったことは無い。各人が大勢の前でパフォーマンスを披露することの重要さを自覚している、あるいは自覚しなければ通用しないシステムが出来上がっているのだろう。こういうところを日本映画は見習わなければならない。
さて、この件に関する言説で私が最も違和感を覚えたのが“(沢尻は)見た目の良さもさることながら、才能があった”とか“実力派女優だった(だから惜しい)”とかいうマスコミや識者等の物言いである。
確かに、沢尻のルックスは華やかで見栄えがするが、私が彼女の演技に感心したことは、ただの一度も無い。有り体に言えば、かなりの大根である。もちろん、デビュー時から実力を発揮する天才肌の俳優は限られているし、多くは駆け出しの頃は未熟だ。しかし、努力を重ねて場数を踏めば、誰でも次第に上手くなってくるのだろう。そういう例はいくらでも見ている。また、たとえ現時点で努力が報われていなくても、懸命に頑張っていれば応援したくなる。
だが、沢尻はデビューしてから15年も経ち、出演作も決して少なくない。にも関わらず、演技面で大きな上達は見られないのだ。これは即ち、彼女にはもともと才能が無いか、または努力を怠っているか、あるいはその両方であると断言せざるを得ない。
そんな彼女を“才能があった”とか“実力がある”とか言って持ち上げる向きは、いったいどこを見ているのだろう。彼女と同じ世代には蒼井優や満島ひかり、宮崎あおい、貫地谷しほり、安藤サクラなど、実力派がそろっている。彼女たちと比べて、それでも“沢尻は実力がある”と言い切ってしまう神経が分からない。
思えば、沢尻が井筒和幸監督の「パッチギ!」(2004年)で新人賞を総なめにした時点で、違和感を覚えた。大した演技でもないのに高く評価されたのは、何かの“裏”があるのではと思ったほどだ。ひょっとしたら、若い頃の分不相応な高評価が彼女に道を誤らせたのかもしれない。
さて、今の邦画界において“明らかな大根”あるいは“大根なのに、それを自覚せず精進を怠っている”と思われる役者が散見されるのには愉快ならざる気分になる。まあ、私も時折たとえば“朝ドラ大根三銃士(または四銃士)”みたいな言い方で茶化したりはするが(笑)、本当はそれじゃダメなのだ。人前に出る以上、それにふさわしいパフォーマンスを見せる(または、見せるように努力する)ことは当然である。そのことをスッ飛ばして表面的なルックスやキャラクターだけで持ち上げる風潮は、日本映画にとってマイナス要因にしかならない。
ひるがえってハリウッドでは、たとえルックス面では好き嫌いが分かれるとしても(笑)、演技力も存在感も持ち合わせない俳優がスクリーンに陣取っている事例には、お目にかかったことは無い。各人が大勢の前でパフォーマンスを披露することの重要さを自覚している、あるいは自覚しなければ通用しないシステムが出来上がっているのだろう。こういうところを日本映画は見習わなければならない。