96年作品。北海道の養護学校を舞台にしたヒューマンドラマ。山田洋次監督による「学校」シリーズの第二弾だが、夜間中学を題材にした第一作とはストーリーは繋がっていない。その年のキネマ旬報ベストテンで8位にランキングされている。
劇中、主人公である教師(西田敏行)のこんなセリフがある。“あんな天使のような心を持った子供たちがなんで普通の生徒と一緒に勉強できないんだ!”。私は椅子から転げ落ちそうになった。ハッキリ言おう。そんな重大なことを軽々しく口にするもんじゃない。
もちろん、決して知的障害者を差別しているわけではない。ただ、健常者と彼らは違うということなのだ。書き方に問題があると言われるならば、“健常者中心の競争社会の最前線では知的障害者との共存はかなり困難だ”と言い直そう。
学校だってある一面から見れば競争社会だ。この映画を観て涙する大人たちは、自分の子供がもし学校で勉強そっちのけで授業中に奇声を発する生徒や失禁する生徒の世話までしなきゃいけなくなったらどうなるのか考えたことがあるのか(しかも小学校ではなく映画のように高校で)。現実は厳しい。安っぽい理想論でお茶を濁すヒマはないのだ。
もし“そもそも、そういう現実が間違いである”と言いたいのなら、こんな松竹大船調のお涙頂戴予定調和ご都合主義的なアプローチはやめることだ。容赦ないリアリズム演出で観客をねじ伏せるか、いっそのことファンタジーにしてしまうとか、別の方法があるはずだ。だいたい何だ? 自分の娘もロクに教育できない奴が養護学校で生徒の信頼を得られるわけないだろ。
前作「学校」(93年)も大した映画じゃなかったが、夜間中学という題材の面白さと、突っ込めば成果を上げそうな素材が多く転がっていることから、とりあえず最後まで観ていられた。しかし、今回の養護学校という舞台は、比較的良く知られた素材である反面描き方がステレオタイプになりがちだ。映画はモロにそれにハマっているというか、雰囲気がリアルっぽいのにもかかわらず、印象に残るようなエピソードは見当たらず、出てくる教師たちに魅力がなく、それでいて全体として説教臭いという、困った作品なのだ。
それにしても、ラスト近くの熱気球に乗せられた二人の生徒を追いかけていくうちに何となくドラマが収束してしまうという強引な展開には目が点になるばかり。今までの苦労は何だったのか(-_-;)。
劇中、主人公である教師(西田敏行)のこんなセリフがある。“あんな天使のような心を持った子供たちがなんで普通の生徒と一緒に勉強できないんだ!”。私は椅子から転げ落ちそうになった。ハッキリ言おう。そんな重大なことを軽々しく口にするもんじゃない。
もちろん、決して知的障害者を差別しているわけではない。ただ、健常者と彼らは違うということなのだ。書き方に問題があると言われるならば、“健常者中心の競争社会の最前線では知的障害者との共存はかなり困難だ”と言い直そう。
学校だってある一面から見れば競争社会だ。この映画を観て涙する大人たちは、自分の子供がもし学校で勉強そっちのけで授業中に奇声を発する生徒や失禁する生徒の世話までしなきゃいけなくなったらどうなるのか考えたことがあるのか(しかも小学校ではなく映画のように高校で)。現実は厳しい。安っぽい理想論でお茶を濁すヒマはないのだ。
もし“そもそも、そういう現実が間違いである”と言いたいのなら、こんな松竹大船調のお涙頂戴予定調和ご都合主義的なアプローチはやめることだ。容赦ないリアリズム演出で観客をねじ伏せるか、いっそのことファンタジーにしてしまうとか、別の方法があるはずだ。だいたい何だ? 自分の娘もロクに教育できない奴が養護学校で生徒の信頼を得られるわけないだろ。
前作「学校」(93年)も大した映画じゃなかったが、夜間中学という題材の面白さと、突っ込めば成果を上げそうな素材が多く転がっていることから、とりあえず最後まで観ていられた。しかし、今回の養護学校という舞台は、比較的良く知られた素材である反面描き方がステレオタイプになりがちだ。映画はモロにそれにハマっているというか、雰囲気がリアルっぽいのにもかかわらず、印象に残るようなエピソードは見当たらず、出てくる教師たちに魅力がなく、それでいて全体として説教臭いという、困った作品なのだ。
それにしても、ラスト近くの熱気球に乗せられた二人の生徒を追いかけていくうちに何となくドラマが収束してしまうという強引な展開には目が点になるばかり。今までの苦労は何だったのか(-_-;)。