思春期の葛藤や苦悩を露悪的にさらけ出し、それをスラップスティック風味でエンタテインメントに昇華させようという作戦のようだが、大して上手くいっているとは思えない。しかし、見逃せないモチーフがあり、結果としてスクリーンから目が離せなかった。ひとつの長所が低調な映画を大幅に底上げしてくれるケースもあるのだ。
北関東の地方都市に住む中学2年生の春日高男は、ボードレールの詩集「悪の華」を愛読しつつ、“自分はこんなもんじゃない”という自意識を持て余して面白くもない毎日を送っていた。ある日の放課後、誰も居ない教室で憧れていた佐伯奈々子の体操着が放置されているのを目にした高男は、思わずブルマの匂いを嗅いでしまう。
ところが、そのヤバい光景をクラスの問題児である仲村佐和が目撃。弱みを握られた高男は、佐和と理不尽な“主従関係”を結ぶハメになる。佐和の要求は徹底してサディスティックだったが、佐和からの“指令”で奈々子とデートさせられた際に、意外にも奈々子が高男のことを憎からず思っていたことが判明。佐和との関係との板挟みになり、高男の悩みは深まるばかりだった。
訳も分からずに苦しんだり、粗暴になったり、狂騒的になったりと、思春期の“生理”というのはとにかくグチャグチャだ。だが、映画としてそれを扱うには一方で確固とした基準が必要である。それは、道徳的規範あるいはそれを体現している“大人”の存在だが、本作にはそれが無い。
高男と佐和だけではなく、一見清純そうな奈々子や、高男が高校進学後に知り合う常磐文もマトモではないと分かった時点で、ドラマは“何でもあり”の状態になり、話は説得力を欠く絵空事の次元に移行してしまう。井口昇の演出は混迷の度を増すばかりのドラマを整理出来ず、最後まで要領を得ない仕事ぶりだ。しかし、冒頭に述べた“見逃せないモチーフ”によって映画としての求心力は全く衰えない。それは佐和を演じる玉城ティナのパフォーマンスだ。
伊藤健太郎や秋田汐梨、飯豊まりえといった他の主要キャストが“一般人が変態を演じている”というレベルに留まっているのに対し、玉城は完全に頭のネジが飛んでいる“変態そのもの”である。特に高男と奈々子のデートをストーキングする様子は、まるで魔女だ(笑)。今後は果たして普通の役が演じられるのかという危惧はあるが、取り敢えずは世界に冠たる若手変態女優として精進して欲しい(注:これはホメているのだ)。早坂伸の撮影は及第点。福田裕彦の音楽、そしてリーガルリリーによる主題歌も悪くない。