(原題:NIGHT ON EARTH)91年作品。ジム・ジャームッシュ監督は、出世作「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(84年)まではセリフを抑えたストイックな作風が目立っていたが、ロベルト・ベニーニに出会った「ダウン・バイ・ロー」(86年)からは登場人物によく喋らせるようになった。それを“進化”と受け取るか、あるいは“変節”と捉えるかは、観る者の自由だ。ただし、個人的にはそれからこの作家に興味を失っていったのは確かである。
ロスアンジェルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキを舞台に、タクシードライバーと乗客の人間模様を描いたオムニバスものだ。出てくるキャラクターは面白い。キャスティングも実に多彩だ。ウィノナ・ライダーにジーナ・ローランズ、アーミン・ミューラー=スタール、ジャンカルロ・エスポジート、ベアトリス・ダル、マッティ・ペロンパー、そしてもちろんロベルト・ベニーニも出てくる。
何よりタクシーという限られた空間で、たぶん今後は二度と出会わないであろう運転手と客との束の間の触れ合いを展開する、その設定が興味深い。しかも、監督はアメリカ人ながら、俳優たちは各々母国語で喋る(現地の演出家たちが協力したらしい)。
各エピソードは凝っていて、道も知らないのにニューヨークのタクシードライバーになった者が巻き起こす珍騒動とか、視覚障害者ながら道順を的確に指図する若い女、客の神父相手に勝手に懺悔を始めるヤクザな運転手など、それぞれ楽しませてくれる。
だが、どうにも“思いつき”で作られた話であるとの印象も拭えない。無国籍的なカオスは、やはりカオスのまま放り出されて、決着が付くことはないのだ。オムニバス形式にしたのも、断片的なモチーフを並べるのに相応しいと踏んだからだろう。だから、観ている間は退屈しないが、鑑賞後はあまり印象に残らない。結局、一番興味を覚えたのがトム・ウェイツによる音楽だった。
ジャームッシュの映画にはこの後長い間疎遠になったのだが、近作「パターソン」(2016年)で久々に彼の作品に接したら、良い感じに“熟成”していて満足したことを覚えている。映像作家はキャリアを積み重ねるたびにタッチが変わっていくのは当然。一度は敬遠するようになった監督も、時間を空けてその作品を観てみると、印象が変わる場合もある。こういう展開も映画鑑賞の醍醐味なのだろう。
ロスアンジェルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキを舞台に、タクシードライバーと乗客の人間模様を描いたオムニバスものだ。出てくるキャラクターは面白い。キャスティングも実に多彩だ。ウィノナ・ライダーにジーナ・ローランズ、アーミン・ミューラー=スタール、ジャンカルロ・エスポジート、ベアトリス・ダル、マッティ・ペロンパー、そしてもちろんロベルト・ベニーニも出てくる。
何よりタクシーという限られた空間で、たぶん今後は二度と出会わないであろう運転手と客との束の間の触れ合いを展開する、その設定が興味深い。しかも、監督はアメリカ人ながら、俳優たちは各々母国語で喋る(現地の演出家たちが協力したらしい)。
各エピソードは凝っていて、道も知らないのにニューヨークのタクシードライバーになった者が巻き起こす珍騒動とか、視覚障害者ながら道順を的確に指図する若い女、客の神父相手に勝手に懺悔を始めるヤクザな運転手など、それぞれ楽しませてくれる。
だが、どうにも“思いつき”で作られた話であるとの印象も拭えない。無国籍的なカオスは、やはりカオスのまま放り出されて、決着が付くことはないのだ。オムニバス形式にしたのも、断片的なモチーフを並べるのに相応しいと踏んだからだろう。だから、観ている間は退屈しないが、鑑賞後はあまり印象に残らない。結局、一番興味を覚えたのがトム・ウェイツによる音楽だった。
ジャームッシュの映画にはこの後長い間疎遠になったのだが、近作「パターソン」(2016年)で久々に彼の作品に接したら、良い感じに“熟成”していて満足したことを覚えている。映像作家はキャリアを積み重ねるたびにタッチが変わっていくのは当然。一度は敬遠するようになった監督も、時間を空けてその作品を観てみると、印象が変わる場合もある。こういう展開も映画鑑賞の醍醐味なのだろう。