メンタル面でハンデのあるキャラクター達が織り成すドラマだが、作品自体は普遍性が高く、観ていると身につまされて胸が痛くなる。決して明るい映画はないものの、キャストの奮闘も含めて高く評価したい。最近の邦画の中では上出来の部類だ。
躁鬱病を抱え、過眠に悩まされている寧子は、ゴシップ雑誌の編集者である津奈木の部屋で彼と一緒に生活している。部屋から一歩も外に出られず、たまに電話を掛けてくる姉からは“しっかりしろ!”と叱責されるばかりで、彼女はその不満のはけ口を津奈木に向けて当たり散らしていた。
ある日、津奈木の元恋人である安堂が寧子の前に現れる。安堂の狙いは、津奈木とヨリを戻すため寧子を自立させて、彼の部屋から追い出すことだった。安堂は寧子を無理矢理に馴染みのカフェバーに連れて行き、勝手にその店のアルバイトとして採用させてしまう。それでも店のマスターは優しく、情緒不安定な寧子を受け容れようとする。一方、津奈木はゴシップ誌には不似合いの硬派な時事ネタを扱った後輩の美里の原稿を、何とか掲載させようとして編集長と衝突していた。本谷有希子の同名小説の映画化だ。
寧子は内面的なハンデを負っているが、その悩みの中身は万人に共通するものだと言えよう。自身が考えていることと異なる言動を取ってしまい、嫌悪感を抱く。それでいて、周囲の者から自分の本音を見透かされてしまうことを何よりも恐れている。
つまりは、ここで描かれているのはコミュニケーションの不全なのだが、大抵の者は些細な行き違いなど“大したことは無い”とスルーして日々を生きている。だが、本当はそれは欺瞞なのではないか。本作の寧子と津奈木のように、互いの心がほんの少しの間でも完全にシンクロする瞬間を追い求め、身悶えして苦しむ方が、本来あるべき姿なのではないか。そういう根源的な問いを突きつけるこの映画の存在感は、実に大きい。
これがデビュー作になる監督の関根光才はCMやプロモーションビデオで実績を上げた人物らしいが、そういう経歴を持つ者特有の映像的ケレンやスタイリッシュな時制の切り取り方などが見られず、正攻法に徹しているあたりは感心した。今後も映画を作って欲しいと思わせるほどの、堅実な仕事ぶりだ。
キャストでは何といっても寧子に扮した趣里が光る。正直、もしもこの役を蒼井優や門脇麦あたりが引き受けていたら、軽くこなしていたかもしれない。だが、趣里は懸命の努力によって役柄を引き寄せている姿勢がひしひしと感じられ、その気迫に圧倒される。
津奈木役の菅田将暉もいつも通り安定したパフォーマンスを見せているが、それよりも凄いのが安堂を演じる仲里依紗だ。“頭の中が完全にイッてしまった女”を、ここまで生々しく表現できる俳優はそういないだろう。重森豊太郎のカメラによる陰影に富んだ画面、世武裕子の音楽、共に言うことなしだ。