(原題:searching )アイデアには感心した。また、決して“ただの思い付き”に終わらせないため、ストーリーラインにも努力の跡がみられる。ただし、この手は基本的に一回しか使えないため(何度もやれば即マンネリだ)、次回はどういうアプローチを見せるかが、この若い監督(これがデビュー作のアニーシュ・チャガンティ)の課題だろう。
ロスアンジェルスに住むデイヴィッド・キムは、妻を病気で亡くしてから、男手一つで娘のマーゴットを育ててきた。ある日、高校生になった娘が友人宅に外泊すると言って家を出たきり、帰らなくなる。デイヴィッドはマーゴットの友人たちに何か事情を知っていないか聞いてみるが、実は彼女は当日友人の家には泊まらずに夜中に一人で出かけたことが判明。彼は警察に届け、担当のヴィック捜査官と共に捜索に当たるうちに、いつも明朗活発だったマーゴットの“別の顔”を知ることになる。
本作はすべてPCのディスプレイの画面およびテレビのニュース映像のみで構成される。よって、いかにしてデイヴィッドが娘に関する情報を集めていくか、そのプロセスが克明に描かれる。これは話が理詰めに展開している(ように見える)こと、および画面に緊張感を持たせることに貢献している。さらに、最終的には親子の絆というモチーフも挿入されており、何とか体裁を整えたという感じだ。
しかし、冒頭に“ストーリーラインも努力している”と書いたものの、プロットの組み立て自体は万全ではない。主人公が事件の証拠を見付ける切っ掛けが、多分に御都合主義的である。
マーゴットや“真犯人”およびその“協力者”の深い内面は描かれず、文字通りデジタル的に割り切るように事実が羅列されるのみだ。ネットワークが持つ“闇”のようなものも表面的にしか描かれないし、事件の真相やトリックもネットワークの特長に準拠していない。キム親子は韓国系だが、特にアジア系アメリカ人を主人公にする必然性が見受けられないのも不満だ。
それからデイヴィッドが(この年代にしては)PCの扱いがとても達者である点は、やや違和感を覚える(笑)。それ相応の職業に就いているという前振りぐらいあってよかった。ジョン・チョウやデブラ・メッシング、ミシェル・ラーといった出演陣は馴染みが無いが、及第点に達する仕事はしている。いずれにしろ、脚本も担当したチャガンティ監督の真価が問われるのはこれからだ。
ロスアンジェルスに住むデイヴィッド・キムは、妻を病気で亡くしてから、男手一つで娘のマーゴットを育ててきた。ある日、高校生になった娘が友人宅に外泊すると言って家を出たきり、帰らなくなる。デイヴィッドはマーゴットの友人たちに何か事情を知っていないか聞いてみるが、実は彼女は当日友人の家には泊まらずに夜中に一人で出かけたことが判明。彼は警察に届け、担当のヴィック捜査官と共に捜索に当たるうちに、いつも明朗活発だったマーゴットの“別の顔”を知ることになる。
本作はすべてPCのディスプレイの画面およびテレビのニュース映像のみで構成される。よって、いかにしてデイヴィッドが娘に関する情報を集めていくか、そのプロセスが克明に描かれる。これは話が理詰めに展開している(ように見える)こと、および画面に緊張感を持たせることに貢献している。さらに、最終的には親子の絆というモチーフも挿入されており、何とか体裁を整えたという感じだ。
しかし、冒頭に“ストーリーラインも努力している”と書いたものの、プロットの組み立て自体は万全ではない。主人公が事件の証拠を見付ける切っ掛けが、多分に御都合主義的である。
マーゴットや“真犯人”およびその“協力者”の深い内面は描かれず、文字通りデジタル的に割り切るように事実が羅列されるのみだ。ネットワークが持つ“闇”のようなものも表面的にしか描かれないし、事件の真相やトリックもネットワークの特長に準拠していない。キム親子は韓国系だが、特にアジア系アメリカ人を主人公にする必然性が見受けられないのも不満だ。
それからデイヴィッドが(この年代にしては)PCの扱いがとても達者である点は、やや違和感を覚える(笑)。それ相応の職業に就いているという前振りぐらいあってよかった。ジョン・チョウやデブラ・メッシング、ミシェル・ラーといった出演陣は馴染みが無いが、及第点に達する仕事はしている。いずれにしろ、脚本も担当したチャガンティ監督の真価が問われるのはこれからだ。